「新潮」新年号の付録にCD「詩声/詩聖」。古川日出男の朗読はイマイチだなあ。(哲




2007N127句(前日までの二句を含む)

December 07122007

 吾子の四肢しかと外套のわれにからむ

                           沢木欣一

子は(あこ)。自分の記憶の中で一番古いものは四歳の時の保育園。ひとりの先生とみんなで相撲をとった。みんな易々と持ち上げられ土俵から出されたが、僕は先生の長いスカートの中にもぐりこんで足にしがみついた。先生は笑いながらふりほどこうとしたが、僕はしっかりと足に四肢をからめて離れず、ついに先生は降参した。このときの奮戦を先生は後に母に話したため、僕はしばらくこの話題で何度も笑われるはめになった。あのときしがみついた先生の足の感じをまだ覚えている。加藤楸邨の「外套を脱がずどこまでも考へみる」森澄雄の「外套どこか煉炭にほひ風邪ならむ」そして、この句。外套の句はどこか内省的で心温かい。澄雄も欣一も楸邨門で「寒雷」初期からの仲間。二人とも昔はこんなヒューマンな句を作っていたのだった。「寒雷」は「花鳥諷詠」の古い情趣や「新興俳句」の借り物のモダニズムの両者をよしとせずに創刊された。「人間探求」の名で呼ばれる「人間」という言葉が「ヒューマニズム」に限定されるのは楸邨「寒雷」の本意ではないが、それもまた両者へのアンチ・テーゼのひとつであったことは確かである。講談社版『日本大歳時記』(1981)所載。(今井 聖)


December 06122007

 月光とあり死ぬならばシベリアで

                           佐藤鬼房

房は昭和15年入隊。中国から南方へ転進、スンバワ島で終戦を迎えた。太平洋戦争当時青年期を迎えた男達は否応なく戦争に駆り立てられていった。鬼房は南の島で囚われたが、ソ連の虜囚となった何万もの日本兵はシベリアの強制収容所に送られた。その中には中国でたまたま同じ場所に居合わせた部隊もあったかもしれない。シベリアの大地を照らす月は寒々とした冬の月を思わせる。寒さと飢えに苛まれた日常と労働がどれほど厳しいものであったか、その痛苦の体験から掴みとったものを香月泰男は絵に、石原吉郎は詩や文章に表している。収容された多くの人たちは再び故国の土を踏むことなくシベリアの凍土に葬られた。「死ぬならばシベリアで」の言葉には、望郷の念を胸に短い生涯を終えた同世代の青年たちへの愛惜がこもっている。同じように捕虜になった自分が無事帰還したことに傷のような負い目も残ったかもしれない。そうでなくとも、この時代に青年期をくぐりぬけた人達は若くして戦死した仲間に対して自分たちが生き延びたことに、すまなさに似た気持ちを持ち続けていたように思う。鬼房と同年齢のうちの父などもそうだった。世が繁栄すればするほど戦争の記憶は陰画のように心の底に焼き付けられたままであったろう。死ぬならば、の呼びかけは生きながら月光を浴びる鬼房のかなわぬ願いだったのかもしれない。『現代俳句12人集』(1986)所載。(三宅やよい)


December 05122007

 木枯や煙突に枝はなかりけり

                           岡崎清一郎

京では今年十一月中旬に木枯一号が記録された。暑い夏が長かったわりには、寒気は早々にやってきた。さて、煙突に枝がないのはあたりまえ――と言ってしまうのは、子供でも知っている理屈である。この句には大人ならではの発見がある。さすがに清一郎、木枯のなかで高々と突っ立っている煙突を、ハッとするような驚きをもって新たに発見している。そこに「詩」が生まれた。木枯吹きつのるなかにのそっと突っ立っている煙突、その無防備な存在感に今さらのように気づかされている。文字通り手も足も出ない。木枯の厳しさを、無防備な煙突がいっそう際立たせているではないか。突っ立っている煙突に、人間の姿そのものを重ねて見ているのかもしれない。木枯を詠んだ句がたくさんあるなかで、清一郎のこの句は私には忘れがたい。昭和十一年に創刊された詩人たち(城左門、安藤一郎、岩佐東一郎、他)による俳句誌「風流陣」に発表された。「清一郎の夫人行くなり秋桜」という洒落た句も清一郎自身が詠んでいる。ユーモアと奇想狂想の入りまじったパワフルな詩を書いた、足利市在住の忘れがたい異色詩人であった。小生が雑誌編集者時代に詩を依頼すると、返信ハガキにとても大きな字で「〆切までに送りましょうよ」と書き、いつも100行以上の長詩をきちんと送ってくださった。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




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