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December 08122007

 見て居れば石が千鳥となりてとぶ

                           西山泊雲

鳥は、その鳴き声の印象などから、古くから詩歌の世界では、冬のわびしさと共に詠まれ、冬季となっている。しかし実際には、夏鳥や留鳥のほか、春と秋、日本を通過するだけの種類もいるという。海辺で千鳥が群れ立つのを見たことがある。左から右へ飛び立ち、それがまた左へ旋回する時、濃い灰褐色から白に、いっせいにひるがえる様はそれは美しかった。この句の千鳥は川千鳥か。作者が見て居たのは河原、そこに千鳥がいることを、あまり意識していなかったのかもしれない。突然、いっせいに飛び立った千鳥の群、本当に河原の石が千鳥となって、飛び立ったように見えたのだろう。句意はそうなのだろうと思いつつ、なんとなく、意識が石へ向いてしまった。子供の頃、生きているのは動物だけじゃないのですよ、草も木もみんな生きているのです、と言われ、じゃあ石は?と思ったけれど聞けなかった。生命は石から誕生し最後には石に還る、という伝説もあるという。半永久的な存在である石が、千鳥となって儚い命を持つことは、石にとって幸せなんだろうか、などと思いつつ、ふっと石が千鳥に変わる瞬間を思い描いてみたりもするのだった。「泊雲」所収。(今井肖子)


August 2982008

 秋出水家を榎につなぎけり

                           西山泊雲

水で舟を岸辺に繋ぐくらいの発想しか通常は出てこない。それは自分の中に累積したイメージで作ろうとするからだろうな。イメージは自由に拡がると思うと大間違い。想像の方が先入観に縛られて古い情趣まみれの世界しか生み出せない。言葉だけをいじって清新なイメージを紡ごうと四苦八苦したあげく他ジャンルの表現を借用してモダンを気取ることになる。「馬酔木」の出発以来俳句は「見て作る」か「アタマで作る」かのせめぎあいだった。表現はすべてアタマで作るのだなんてことは言わずもがな。要は「もの」のリアルをまず起点に置くかどうかということ。こういう句を見ると両者のせめぎあいははっきり決着がついた感がある。家をつなぐ。榎につなぐ。どちらもアタマでは作れない。こんなリアルは見ることの賜物。『新歳時記増訂版虚子編』(1951)所載。(今井 聖)




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