最も長生きの都道府県は男性が長野の79.84歳、女性が沖縄の88.86歳。ほほう。(哲




2007ソスN12ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 18122007

 かまいたち鉄棒に巻く落とし物

                           黛まどか

会的センスを求められがちな作者だが、何気ない写生句にも大きな魅力がある。通学路や公園の落とし物は、目の高さあたりのなにかに結ばれて、持ち主を待っているものだ。それはまるで公園のところどころに実る果実のように、マフラーや給食袋などがいつとはなく結ばれ、またいつとはなくなくなっている。ひとつふたつと星が出る頃、ぽつんと明かりが灯るように鉄棒に巻かれた落とし物が人の体温を伝え、昼間鉄棒にまといついていた子どもたちの残像をひっそりとからみつかせている。また、かまいたち(鎌鼬)とは、なにかの拍子でふいに鎌で切りつけられたような傷ができる現象をいう。傷のわりに出血もしないことから伝承では3匹組の妖怪の仕業などとも言われ、1匹目が突き飛ばし、2匹目が鎌で切り、3匹目が薬を塗る、という用意周到というか、必要以上の迷惑はかけない人情派というか、なんとも可愛らしい。この妖怪じみた気象現象により、夜の公園でかまいたちたちがくるくると遊んでいるような気配も出している。〈春の泥跳んでお使ひ忘れけり〉〈ひとときは掌のなかにある毛糸玉〉『忘れ貝』(2007)所収。(土肥あき子)


December 17122007

 クリスマスケーキ買いたし 子は散りぢり

                           伊丹三樹彦

リスマスケーキとは、つまりこういうものである。むろん買って帰ってもよいのだが、老夫婦だけのテーブルに置くのはなんとなく侘びしい。ケーキのデコレーションが華やかなだけに、である。子供たちがまだ小さくて、夫婦も若かった頃には、ケーキを食卓に置いただけで家の中がはなやいだ。目を輝かせて、大喜びする子供たちの笑顔があったからだ。その笑顔が、親にとってはケーキよりももっと美味しいものだったのだ。そんなふうだった子供らも、やがて次々に独立して家を離れていった。詩人の以倉紘平は「どんな家にも盛りの時がある」と書いているが、まことにもってその通りだ。毎年年末には、作者のような思いで、ケーキ売り場を横目に通り過ぎる人は多いだろう。私も既に、その一人に近い。伊丹三樹彦、八十七歳。この淋しさ、如何ともなし難し。もう一句。「子が居る筈 この家あの家の門聖樹」。『知見』(2007)所収。(清水哲男)


December 16122007

 さう言へばこけしに耳のない寒さ

                           久保枝月

う言えば、(と、わたしも同じようにはじめさせてもらいます)わたしが子供のころには、畳の部屋によく、飾り棚が置いてありました。今のように部屋にゆったりとしたソファーが置いてあったり、あざやかな柄のカーテンがついていたりということなど、なかった時代です。飾り棚と言っても、作りはいたって簡単で、ガラス扉の向こうには、たいていいくつかのこけしが、そっと置いてあるだけでした。来る日も来る日も同じガラスの向こうに、同じこけしの姿を見ている。それがわたしの子供のころの、変化のない日常でした。思えば最近は、こけしを目にすることなどめったにありません。ああそうか、こけしには耳がなかったんだと、あらためて作者は思ったのです。作者が「寒さ」を感じたのは、「こけし」であり、「耳」であり、「ないこと」であったようです。そしてその感覚は、自分自身にも向けられていたのかもしれません。耳という部位を通して、こけしであることと、ひとであることを、静かに比べているのです。「さう言へば」という何気ない句のはじまり方が、どこか耳のないこけしに、語りかけてでもいるように読めます。『微苦笑俳句コレクション』(1994・実業之日本社)所載。(松下育男)




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