cq句

December 20122007

 肉買ひに出て真向に吹雪山

                           金田咲子

ずこの俳句を読んだ私の頭に思い浮かんだのは肉を買いに出た作者の顔へ直に吹雪が吹きつけてくる景だった。だが、落ち着いて最後まで読み下してみれば「真向に吹雪」ではなく「真向に吹雪山」であり、吹雪いているのは、作者のいる場所ではなく、遠く雪雲に曇る正面の山であることがわかる。しかしそう理解した後も今度は暖かい家から吹雪の山へ飛び出していく作者の姿が見えてしまい、なかなか言葉通りの遠近感が戻ってこないのはなぜだろう。肉を買いに出る行為は日常の些事ではあるが、肉と吹雪がくっきりしたコントラストを形作っている。生々しく赤い肉には冷たさと同時に熱を呼ぶ力があり、吹雪には全てを白く覆いつくす暴力的なエネルギーがある。俳句では只事に思える出来事が言葉の組み合わせによって思わぬ像を結ぶときがある。言葉によって喚起される連想が意外なイメージを形作ることは、句会などでよく経験することだ。この句の場合は「肉」と「吹雪」の取り合わせの妙と、末尾の微妙な切れ方が読み手の想像力を刺激し、肉を買いに出るという日常的な行為が激しく吹雪く遠くの山へ肉を買いにゆくような不思議な距離感を感じさせるように思う。『現代俳句の新鋭』(1986)所載。(三宅やよい)


October 01102010

 匂はねばもう木犀を忘れたる

                           金田咲子

ういうのを実存傾向とでもいおうか。僕など加藤楸邨の体臭を感じてしまうがそれは個人的なこと。人は五感によって生を体感して生きている。ここにあるのは嗅覚の強調。木犀は見えてはいるのだが、匂わない限りは見えてはいても見られることはない。存在に気づかれることはないのだ。俳句は往々にしてここから箴言に入る。たとえば、個性を発揮していないと忘れられがちであるというふうに。そうすると木犀自体のあの甘いナマの匂いの実感が薄れてしまう。言葉通りまず実感を十分に味読してから箴言でもどこへでも飛べばいい。その順序が大切。『季別季語辞典』(2002)所載。(今井 聖)




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