冬至ですね。明日からは、少しずつでも日脚が伸びてくると思うと嬉しい。(哲




2007ソスN12ソスソス22ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 22122007

 シリウスの青眼ひたと薬喰

                           上田五千石

星、天狼星、とも呼ばれる、最も明るい冬の星、シリウス。オリオンの三つ星の東南に最後に上り、青白く強い光を放つ恒星である。青眼は正眼であろうから、正面にシリウス。真夜の凍った空気と薬喰(くすりぐい)。肉食が禁じられていた頃、特に冬に体を温める目的でひそかに獣肉を食べたことから、冬に獣肉を食べることを薬喰と呼ぶ。中でも鹿肉は、血行をよくするというので好まれたという。先日、鹿肉の刺身をいただく機会があった。魚はもちろん、鳥肉、馬肉、鯨肉、と刺身は好きなのだが、鹿は初めて。小鉢に盛られたその肉は、鮪のような深い赤であり、ほの甘く癖もなく美味だったのだが、「鹿です」と言われた瞬間、まさに鹿の姿が目の前に浮かび、一瞬たじろいだ。それも、何年か前に訪れた奈良、夜の公園近くの道端の茂みから、突然飛び出して来た鹿の姿が浮かんだのだ。昼間見たのんびりとした様子とは一変し、月に照らされた鹿は、まさに獣であった。それでも結局食べたんでしょ、いつもあれこれ肉を食べてるんでしょ、まさにその通りではあるのだが、あの鹿肉の瑞々しい赤が、月夜の鹿の黒々とした姿と共に脳裏を離れない。そして、掲句の、青眼ひたと、の持つ静謐で鋭い切っ先に、再びたじろいでしまうのだった。「新日本大歳時記」(1999・講談社)所載。(今井肖子)


December 21122007

 掘られたる泥鰌は桶に泳ぎけり

                           青木月斗

鰌と鰻の違いはどこかなどというと、奇異に思われるかもしれない。山陰の田舎では田んぼの用水路なんかで釣りをしていると三十センチくらいのやつがかかって、釣ったばかりは鰻か泥鰌かはたまた蛇かわからない。もっとも蛇は水中にいないので選択肢はふたつだ。髭があるのが泥鰌だよと釣り友達からあらためて教わったものだ。持って帰ると父が蒲焼にしてくれた。うまかった。山陰と泥鰌と言えば安来節。ヘルスセンターなどいたるところでやっていた。安来節名人がいて、割り箸を二本鼻の穴に挿して、泥鰌を取る仕草が実にリアルで大うけにうける。小学校の学芸会でもひょうきん者がよく出し物にしていた。加藤楸邨に「みちのくの月夜の鰻遊びをり」がある。楸邨は鰻が大好きだった。幼時、父親の転勤で東北地方に居たときなど、川でよく鰻を捕ったとのこと。小さいものをめそっこと言ってよく食べたとエッセーにもある。めそっこなら泥鰌とほとんど変らない大きさだろう。冬の田の土中を掘って入り込んだ泥鰌を捕ったあと、桶で泳がせて泥を吐かせる。そのあとは鍋か唐揚か。それもいいが、あの泥鰌の蒲焼をまた食べてみたい。講談社版『日本大歳時記』(1981)所載。(今井 聖)


December 20122007

 肉買ひに出て真向に吹雪山

                           金田咲子

ずこの俳句を読んだ私の頭に思い浮かんだのは肉を買いに出た作者の顔へ直に吹雪が吹きつけてくる景だった。だが、落ち着いて最後まで読み下してみれば「真向に吹雪」ではなく「真向に吹雪山」であり、吹雪いているのは、作者のいる場所ではなく、遠く雪雲に曇る正面の山であることがわかる。しかしそう理解した後も今度は暖かい家から吹雪の山へ飛び出していく作者の姿が見えてしまい、なかなか言葉通りの遠近感が戻ってこないのはなぜだろう。肉を買いに出る行為は日常の些事ではあるが、肉と吹雪がくっきりしたコントラストを形作っている。生々しく赤い肉には冷たさと同時に熱を呼ぶ力があり、吹雪には全てを白く覆いつくす暴力的なエネルギーがある。俳句では只事に思える出来事が言葉の組み合わせによって思わぬ像を結ぶときがある。言葉によって喚起される連想が意外なイメージを形作ることは、句会などでよく経験することだ。この句の場合は「肉」と「吹雪」の取り合わせの妙と、末尾の微妙な切れ方が読み手の想像力を刺激し、肉を買いに出るという日常的な行為が激しく吹雪く遠くの山へ肉を買いにゆくような不思議な距離感を感じさせるように思う。『現代俳句の新鋭』(1986)所載。(三宅やよい)




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