一応(笑)「仕事納め」です。パソコンソフトの強制終了みたいなものですなあ。(哲




2007ソスN12ソスソス28ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 28122007

 猟犬は仲居の顔に似てゐたり

                           中岡毅雄

居の顔を見ていて猟犬に似ていると感じたのではなく、犬の顔を見ていて仲居を思ったのである。ユーモアがあるけれど、そこを狙った句ではない。結果的に面白くなっただけだ。冬季、猟、そのための猟犬というつながりで猟犬は冬の季題に入るのだが、日常で猟が見られない今日、季節感は感じられない。そこにも情趣の狙いはない。猟犬と言えば西洋系の犬が浮かぶ。柴犬も猟に伴う犬だが、どうみても仲居はイメージできない。柴犬のような仲居は宴席に向かない。どうしてもラブラドール種やセッターやポインターなどの優雅な風貌を思い浮かべてしまう。ユーモアも季題中心の情緒にも狙いがないとすると狙いはどこか。それは直感にあると言えよう。作者は波多野爽波創刊主宰の「青」で学んだ。爽波は「多作多捨」、「多読多憶」を旨とし、スポーツで体を鍛えるように俳句も眼前のものを速写して鍛えるべきとして「俳句スポーツ説」を唱えた。計らう間も無く、写して、写しまくっていく中で、浮かび上がってくるものの中に「写生」という方法の真髄があるという主張である。この句も計らう間もない速写の中に作者の直感がいきいきと感じられる。『青新人会作品集』(1987)所載。(今井 聖)


December 27122007

 太箸に飼犬の名も加えけり

                           清水凡亭

日は御用納め。週末から年用意を始められる方も多いだろう。太箸は新年の雑煮の餅をいただくのに、折れては縁起が悪いので柳などで作られるという。赤や金のふち飾りのある箸袋へ墨をたっぷり含ませた筆で家族一人ひとりの名前を書いてゆく。娘や息子も別世帯を持ちいまや家族は夫婦のみ。あまった箸袋の一つに飼い犬の名前を書いてやる。昔は犬を人間なみに扱う飼い主をどうかと思っていたけど、身近に犬を飼うようになりその温もりに慰められている今となっては作者の気持ちはよくわかる。家族が共に過ごす時間はずっと続くかのように見えて限られているもの。いつもテーブルの下にいる犬の名前を書き添えた太箸をテーブルに置いてお雑煮をいただく。これが猫の飼い主なら箸袋に飼い猫の名前を書くだろうか?何となく猫派は書かないような気がするのだけど、どうだろう。作者凡亭は清水達夫「戦後雑誌の父」とも言われた編集者。初代編集長をつとめた「平凡パンチ」「週刊平凡」を百万部雑誌に育てあげたと、その略歴にある。「生涯一編集者かな初暦」「本つくる話はたのし炉辺の酒」これらの句にあるように最後の最後まで編集に意欲を燃やし、新しい雑誌の企画を仲間と練り続けた人だったらしい。『ネクタイ』(1993)所収。(三宅やよい)


December 26122007

 下駄買うて箪笥の上や年の暮

                           永井荷風

や、こんな光景はどこにも見られなくなったと言っていい。新年を迎える、あるいはお祭りを前にしたときには、大人も子供も新しい下駄をおろしてはくといった風習があった。私たちが今、おニューの靴を買ってはくとき以上に、新しい下駄をおろしてはくときの、あの心のときめきはとても大きかったような気がする。だって、モノのなかった当時、下駄はちびるまではいてはいてはき尽くしたのだもの。そのような下駄を、落語のほうでは「地びたに鼻緒をすげたような・・・」と、うまい表現をする。私の地方では「ぺっちゃら下駄」と呼んでいた。♪雨が降るのにぺっちゃら下駄はいて・・・と、ガキどもは囃したてた。さて、「日和下駄」で知られる荷風である。新年を前に買い求めた真新しい下駄を箪笥の上に置いて眺めながら、それをはきだす正月を指折りかぞえているのだろう。勘ぐれば、同居している女の下駄であるかもしれない。ともかく、まだはいてはいない下駄の新鮮な感触までも、足裏に感じられそうな句である。下駄と箪笥の取り合わせ。買ったばかりの下駄を、箪笥の上に置いておくといった光景も、失われて久しい。その下駄をはいてぶらつくあらたまの下町のあちこち、あるいは訪ねて行くいい人を、荷風先生にんまりしながら思い浮かべているのかもしれない。あわただしい年の暮に、ふっと静かな時間がここには流れている。「行年に見残す夢もなかりけり」も荷風らしい一句である。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




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