寒波到来。年末年始は大荒れの天気に。天まで機嫌が悪いとは。やれやれです。(哲




2007ソスN12ソスソス30ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 30122007

 改札に人なくひらく冬の海

                           能村登四郎

つて、混雑した改札口で切符の代わりに指を切られたという詩を書いた人がいました。しかし、自動改札が普及した昨今では、もうそのような光景を見ることはありません。掲句、改札は改札ですが、描かれているのは、都会の駅とはだいぶ趣が異なっています。側面からまっすぐに風景を見渡しています。冬の冷たい風が吹き、空一面を覆う厚い雲が、小さな駅舎を上から押さつけているようです。句が、一枚の絵のようにわたしの前に置かれています。見事な描写です。北国のローカル線の、急行の停まらない駅でしょうか。それほどに長くはないホームには、柱に支えられた屋根があるのみで、海への視界をさえぎるものは他にありません。改札口には、列車が来る寸前まで駅員の姿も、乗客の姿も見えません。改札を通るのは、人々の姿ではなく、ひたすらに風だけのようです。冬の冷たさとともに、すがすがしい広さを感じることができるのは、「ひらく」の一語が句の中へ、大きな空間を取り込んでいるからなのでしょう。『現代俳句の世界』(1998・集英社)所載。(松下育男)


December 29122007

 枯園でなくした鈴よ永久に鈴

                           池田澄子

立はその葉を落とし、下草や芝も枯れ、空が少し広くなったような庭園や公園、枯園(かれその)は、そんな冬の園だろう。そこで、小さい鈴をなくしてしまう。鈴がひとつ落ちている、と思うと、園は急に広く感じられ、風が冷たく木立をぬけてゆく。身につけていた時には、ときおりチリンとかすかな音をたてていた鈴も、今は枯草にまぎれ、どこかで静かにじっとしている。やがて、鈴を包みこんだ枯草の間から新しい芽が吹き、大地が青く萌える季節が訪れて、その草が茂り、色づいてまた枯れても、新しい枯草に包まれて鈴はそこに存在し続ける。さらに時が過ぎ、落とし主がこの世からいなくなってしまった後も、鈴は永久に鈴のまま。土に還ることも朽ちることもない小さな金属は、枯れることは生きた証なのだ、といっているようにも思える。枯れるからこそまた、生命の営みが続いていく。永久に鈴、にある一抹のさびしさが余韻となって、句集のあとがきの「万象の中で人間がどういう存在なのかを、俳句を書くことで知っていきたい。」という作者の言葉につながってゆく。『たましいの話』(2005)所収。(今井肖子)


December 28122007

 猟犬は仲居の顔に似てゐたり

                           中岡毅雄

居の顔を見ていて猟犬に似ていると感じたのではなく、犬の顔を見ていて仲居を思ったのである。ユーモアがあるけれど、そこを狙った句ではない。結果的に面白くなっただけだ。冬季、猟、そのための猟犬というつながりで猟犬は冬の季題に入るのだが、日常で猟が見られない今日、季節感は感じられない。そこにも情趣の狙いはない。猟犬と言えば西洋系の犬が浮かぶ。柴犬も猟に伴う犬だが、どうみても仲居はイメージできない。柴犬のような仲居は宴席に向かない。どうしてもラブラドール種やセッターやポインターなどの優雅な風貌を思い浮かべてしまう。ユーモアも季題中心の情緒にも狙いがないとすると狙いはどこか。それは直感にあると言えよう。作者は波多野爽波創刊主宰の「青」で学んだ。爽波は「多作多捨」、「多読多憶」を旨とし、スポーツで体を鍛えるように俳句も眼前のものを速写して鍛えるべきとして「俳句スポーツ説」を唱えた。計らう間も無く、写して、写しまくっていく中で、浮かび上がってくるものの中に「写生」という方法の真髄があるという主張である。この句も計らう間もない速写の中に作者の直感がいきいきと感じられる。『青新人会作品集』(1987)所載。(今井 聖)




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