本年もご愛読ありがとうございました。佳いお年をお迎えください。(執筆者一同)




2007ソスN12ソスソス31ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 31122007

 どこを風が吹くかと寝たり大三十日

                           小林一茶

のときの一茶が、どういう生活状態にあったのかは知らない。世間の人々が何か神妙な顔つきで除夜を過ごしているのが、たまらなく嫌に思えたのだろう。なにが大三十日(大晦日)だ、さっさと寝ちまうにかぎると、世をすねている。この態度にはたぶんに一茶の気質から来ているものもあるだろうが、実際、金もなければ家族もいないという情況に置かれれば、大晦日や新年ほど味気ないものはない。索漠鬱々たる気分になる。布団を引っかぶって寝てしまうほうが、まだマシなのである。私にも、そんな大晦日と正月があった。世間が冷たく感じられ、ひとり除け者になったような気分だった。また、世をすねているわけではないが、蕪村にも「いざや寝ん元日はまた翌のこと」がある。「翌」は「あす」と読む。伝統的な風習を重んじた昔でも、こんなふうにさばさばとした人もいたということだ。今夜の私も、すねるでもなく気張るでもなく、蕪村みたいに早寝してしまうだろう。そういえば、ここ三十年くらいは、一度も除夜の鐘を聞いたことがない。それでは早寝の方も夜更かしする方も、みなさまにとって来る年が佳い年でありますようにお祈りしております。『大歳時記・第二巻』(1989・集英社)所載。(清水哲男)


December 30122007

 改札に人なくひらく冬の海

                           能村登四郎

つて、混雑した改札口で切符の代わりに指を切られたという詩を書いた人がいました。しかし、自動改札が普及した昨今では、もうそのような光景を見ることはありません。掲句、改札は改札ですが、描かれているのは、都会の駅とはだいぶ趣が異なっています。側面からまっすぐに風景を見渡しています。冬の冷たい風が吹き、空一面を覆う厚い雲が、小さな駅舎を上から押さつけているようです。句が、一枚の絵のようにわたしの前に置かれています。見事な描写です。北国のローカル線の、急行の停まらない駅でしょうか。それほどに長くはないホームには、柱に支えられた屋根があるのみで、海への視界をさえぎるものは他にありません。改札口には、列車が来る寸前まで駅員の姿も、乗客の姿も見えません。改札を通るのは、人々の姿ではなく、ひたすらに風だけのようです。冬の冷たさとともに、すがすがしい広さを感じることができるのは、「ひらく」の一語が句の中へ、大きな空間を取り込んでいるからなのでしょう。『現代俳句の世界』(1998・集英社)所載。(松下育男)


December 29122007

 枯園でなくした鈴よ永久に鈴

                           池田澄子

立はその葉を落とし、下草や芝も枯れ、空が少し広くなったような庭園や公園、枯園(かれその)は、そんな冬の園だろう。そこで、小さい鈴をなくしてしまう。鈴がひとつ落ちている、と思うと、園は急に広く感じられ、風が冷たく木立をぬけてゆく。身につけていた時には、ときおりチリンとかすかな音をたてていた鈴も、今は枯草にまぎれ、どこかで静かにじっとしている。やがて、鈴を包みこんだ枯草の間から新しい芽が吹き、大地が青く萌える季節が訪れて、その草が茂り、色づいてまた枯れても、新しい枯草に包まれて鈴はそこに存在し続ける。さらに時が過ぎ、落とし主がこの世からいなくなってしまった後も、鈴は永久に鈴のまま。土に還ることも朽ちることもない小さな金属は、枯れることは生きた証なのだ、といっているようにも思える。枯れるからこそまた、生命の営みが続いていく。永久に鈴、にある一抹のさびしさが余韻となって、句集のあとがきの「万象の中で人間がどういう存在なのかを、俳句を書くことで知っていきたい。」という作者の言葉につながってゆく。『たましいの話』(2005)所収。(今井肖子)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます