どんな年になるのでしょう。動く年賀状をどうぞ。一昨年公開したものですが。(哲




2008ソスN1ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 0112008

 妻よ天井を隣の方へ荒れくるうてゆくあれがうちの鼠か

                           橋本夢道

けましておめでとうございます。末永くよろしくの思いとともに、自由律の長〜い一句を掲句とした。子年にちなんで、ねずみが登場する句を選出してみたら、あるわあるわ150以上のねずみ句が見つかった。以前猫の句を探したときにもその数に驚いたが、その需要の元となるねずみはもっと多いのが道理なのだと納得はしたものの、現代の生活ではなかなか想像できない。しかし、〈長き夜や鼠も憎きのみならず 幸田露伴〉、〈新藁やこの頃出来し鼠の巣 正岡子規〉、〈鼠にジヤガ芋をたべられて寝て居た 尾崎放哉〉、〈しぐるるや鼠のわたる琴の上 与謝蕪村〉、〈寒天煮るとろとろ細火鼠の眼 橋本多佳子〉などなど、それはもう書斎にも寝室にも台所にも、家でも外でもそこらじゅうに顔を出す。どこにいても決してありがたくない存在ではあるが、あまりに日常的なため、迷惑というよりも「まいったなあ」という感じだ。掲句の屋根の上を走るねずみの足音にもにくしみの思いは感じられない。荒々しく移動していくねずみに一体なにごとが起きたのか、天井を眺めて苦笑している姿が浮かぶ。おそらく呼びかけられた妻も、また天井裏続きのお隣さんもおんなじ顔をして天井を見上げているのだろう。『橋本夢道全句集』(1977)所収。(土肥あき子)


December 31122007

 どこを風が吹くかと寝たり大三十日

                           小林一茶

のときの一茶が、どういう生活状態にあったのかは知らない。世間の人々が何か神妙な顔つきで除夜を過ごしているのが、たまらなく嫌に思えたのだろう。なにが大三十日(大晦日)だ、さっさと寝ちまうにかぎると、世をすねている。この態度にはたぶんに一茶の気質から来ているものもあるだろうが、実際、金もなければ家族もいないという情況に置かれれば、大晦日や新年ほど味気ないものはない。索漠鬱々たる気分になる。布団を引っかぶって寝てしまうほうが、まだマシなのである。私にも、そんな大晦日と正月があった。世間が冷たく感じられ、ひとり除け者になったような気分だった。また、世をすねているわけではないが、蕪村にも「いざや寝ん元日はまた翌のこと」がある。「翌」は「あす」と読む。伝統的な風習を重んじた昔でも、こんなふうにさばさばとした人もいたということだ。今夜の私も、すねるでもなく気張るでもなく、蕪村みたいに早寝してしまうだろう。そういえば、ここ三十年くらいは、一度も除夜の鐘を聞いたことがない。それでは早寝の方も夜更かしする方も、みなさまにとって来る年が佳い年でありますようにお祈りしております。『大歳時記・第二巻』(1989・集英社)所載。(清水哲男)


December 30122007

 改札に人なくひらく冬の海

                           能村登四郎

つて、混雑した改札口で切符の代わりに指を切られたという詩を書いた人がいました。しかし、自動改札が普及した昨今では、もうそのような光景を見ることはありません。掲句、改札は改札ですが、描かれているのは、都会の駅とはだいぶ趣が異なっています。側面からまっすぐに風景を見渡しています。冬の冷たい風が吹き、空一面を覆う厚い雲が、小さな駅舎を上から押さつけているようです。句が、一枚の絵のようにわたしの前に置かれています。見事な描写です。北国のローカル線の、急行の停まらない駅でしょうか。それほどに長くはないホームには、柱に支えられた屋根があるのみで、海への視界をさえぎるものは他にありません。改札口には、列車が来る寸前まで駅員の姿も、乗客の姿も見えません。改札を通るのは、人々の姿ではなく、ひたすらに風だけのようです。冬の冷たさとともに、すがすがしい広さを感じることができるのは、「ひらく」の一語が句の中へ、大きな空間を取り込んでいるからなのでしょう。『現代俳句の世界』(1998・集英社)所載。(松下育男)




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