2008N1句

January 0112008

 妻よ天井を隣の方へ荒れくるうてゆくあれがうちの鼠か

                           橋本夢道

けましておめでとうございます。末永くよろしくの思いとともに、自由律の長〜い一句を掲句とした。子年にちなんで、ねずみが登場する句を選出してみたら、あるわあるわ150以上のねずみ句が見つかった。以前猫の句を探したときにもその数に驚いたが、その需要の元となるねずみはもっと多いのが道理なのだと納得はしたものの、現代の生活ではなかなか想像できない。しかし、〈長き夜や鼠も憎きのみならず 幸田露伴〉、〈新藁やこの頃出来し鼠の巣 正岡子規〉、〈鼠にジヤガ芋をたべられて寝て居た 尾崎放哉〉、〈しぐるるや鼠のわたる琴の上 与謝蕪村〉、〈寒天煮るとろとろ細火鼠の眼 橋本多佳子〉などなど、それはもう書斎にも寝室にも台所にも、家でも外でもそこらじゅうに顔を出す。どこにいても決してありがたくない存在ではあるが、あまりに日常的なため、迷惑というよりも「まいったなあ」という感じだ。掲句の屋根の上を走るねずみの足音にもにくしみの思いは感じられない。荒々しく移動していくねずみに一体なにごとが起きたのか、天井を眺めて苦笑している姿が浮かぶ。おそらく呼びかけられた妻も、また天井裏続きのお隣さんもおんなじ顔をして天井を見上げているのだろう。『橋本夢道全句集』(1977)所収。(土肥あき子)


January 0212008

 今朝の春玲瓏として富士高し

                           廣津柳浪

けてはや二日。冬とはいえ、正月はどこかしら春がいくぶんか近くなった気持ちを抑えきれない。「玲瓏(れいろう)」などという言葉は、今や死語に近いのかもしれない。「うるわしく照りかがやくさま」と『広辞苑』にあるとおり、晴ればれとして曇りのない天気である。霞たなびく春ではない。作者はどこから富士を望んでいるのか知りようもない。まあ、どこからでもよかろう。今でも、都内で高層ビルにわざわざ上がらなくても、思いがけない場所からひょっこりと富士山が見えたりして、びっくりすることがある。そのたびにやっぱり富士ってすげえんだと、改めて思い知らされることになる。空気が澄んでいて、いつもより一段と富士山が高く感じられるのであろう。あたりを払って高く感じられるだけでなく、その姿はいつになく晴ればれとしたものとして感受されている。「今朝の春」という季語は「初春」「新春」「迎春」などと一緒にくくられているところからも、春浅く、まだ春とは名ばかりといったニュアンスが含まれている。作者の頭には「一富士、二鷹、三茄子」もちらついていたのかもしれない。さっそうとしてどこかしらめでたい富士の姿。芭蕉の「誰やらが形に似たりけさの春」は春早々のユーモア。深刻・悲惨な小説を書いた柳浪にしては、からりとして晴朗な新春である。廣津和郎は柳浪の次男。『文人俳句歳時記』(1969)所載。(八木忠栄)


January 0312008

 舞ふ獅子にはなれて笛を吹けりけり

                           安住 敦

子舞は悪魔を祓うとともにその年の豊作を願うのが目的という。獅子のおおきな口で頭を噛んでもらうと無病息災につながると言われるのも獅子が邪気払いのシンボルだからだろう。むかしは玄関先にも獅子舞が「舞いましょうか」と訪ねてきた覚えがあるが、今ではどうなのだろう。私は毎年近くの神社で年越の獅子舞を見ている。本殿の右横にある小さな神楽殿で笛に合わせて舞っている獅子を横目で見ながら初詣の列を進む。お参りが済んだあと焚き火を囲んで温かい甘酒が振舞われるのも魅力だ。掲句の獅子舞は舞台なのか街角なのかはわからないが、観客の視線は獅子の一挙一動に集中している。そこからすっと視線をずらして少し離れた笛の吹き手を描写している。笛は「ささら」と呼ばれる横笛でぴいひゃらと調子のよい節回しを奏でていることだろう。「吹けりけり」ときっぱりした表現が印半纏にぴっちりと身にあった股引をはいたきりりとした立ち姿を想像させる。大きな獅子が細く高い笛の音色に操られて激しく踊る。その熱狂の中心からふっと目を転じて「はなれて」笛を吹いている笛の吹き手を注視している冴え冴えとした視線に、俳人としての見つけどころを感じさせる。角川「俳句手帖」季寄せ(2003)所載。(三宅やよい)


January 0412008

 雪の岳空を真青き玻璃とする

                           水原秋桜子

年の加藤楸邨先生をドライブで一の倉沢にお連れしたのは確か十四年前の晩秋だった。足腰が弱られていたために車を降りてからは車椅子。岩場を縫っての「吟行」になった。この前後の頃に何度先生をさまざまなところへお連れしたことだろう。「歩行的感動」という言葉を出して句作の機微を説明されたほど、実際にものに触れてつくることを旨とされていたので、外に出ることがかなわぬようになると、句が固定的な観念に頼り痩せてくることを避けようとされていたのだった。一の倉沢のてっぺんは雪を被っていたような気がする。覆いかぶさるように上空を囲った岩場の絶巓から木の葉がはらはらと落ちてきた。先生は句帖を開いて太字の鉛筆を持ち、ときおり何かを書き付けておられた。車椅子を押していた僕は上から覗き込んで手帖の中を見た。そこには上句として一の倉沢。行を変えて一の倉沢。次もまた。一の倉沢が三行並んでいた。この「一の倉沢」を、先生はその後推敲して句にされ発表されたような記憶があるが、どんな句だったか覚えていない。没後編まれた句集『望岳』には載っていない。秋桜子のこの句も谷川岳で詠まれた。おそらく一の倉沢だろう。ガラスのような青空から降ってきた木の葉を忘れられない。河出文庫『俳枕(東日本)』(1991)所載。(今井 聖)


January 0512008

 鳥総松月夜重ねて失せにけり

                           風間啓二

けて、平成二十年も早五日、二日ほどで松もとれる。鳥総松(とぶさまつ)は、門松をとった後に、その松の梢を折って差しておくもの。鳥総はもともと、木こりが木を切った時、その一枝を切り株に立て、山の神を祀ったことをいい、鳥総松はこれにならった新年の習慣である。我が家の近隣の住宅街では、本格的な門松を立てる家はまずなく、たいていは松飾りを門扉に括りつけている。我が家の門柱は煉瓦の間に、頭が直径1.5センチほどの輪になったねじ釘が埋めこんであり、そこに松飾りを挿して括る。そして松がとれると、枝を折り、鳥総松とするが、近所では見かけない。十五日まで挿してあるので、小学生が登下校の道すがら、さわるともなくさわっていったりする。この句の場合は、本格的な門松の跡の地面に立てた鳥総松だろう。松の梢は、正月の華やぎの余韻のように、やや頼りない姿で立っている。そして一週間ほど経った朝、片づけようと表を見ると、なくなってしまっているのだ。風にさらわれたのか、犬がくわえていってしまったのか、夜々の月に、傾いだ一枝がひいていた影を思い出しつつ、「今年」が本格的に始動する。『俳句大歳時記』(1965・角川書店)所載。(今井肖子)


January 0612008

 末の児に目くばせをして読む歌留多

                           吉田花宰相

めばだれしもが微笑んでしまうような、かわいらしい句です。季語は「歌留多」、もちろん新年です。昨今の、難解なマニュアルを読まなければはじめられないゲームとは違って、昔の遊びは、単純ではあるけれども、それだけにどんな年齢の子にも、その年齢にあった遊び方ができたように思います。歌留多を読んでいるのはお父さんでしょうか。日ごろは子供と時間を費やすことなど、ましてや一緒に遊ぶことなどめったにありません。子供たちにとっては、そのことだけでも、いつもの時間とは明確に区別された、特別な日であったのです。普通に遊べば当然のことながら、年齢の上の子が、次々と札を取ってゆきます。それでも泣きもせずに札に目を凝らしている末っ子に、一枚でも多く取らせてあげたいと思う気持ちは、親でなくとも十分にわかります。おそらく次の読み札は、末っ子のひざの前にある絵札だったのでしょう。「次はあれだよ」という目配せは、あたたかな、間違いのない親子間のコミュニケーションです。読み始めたとたんに札をとって得意げな顔をしている末っ子の顔。これ以上に大切なものは、めったにありません。『微苦笑俳句コレクション』(1994・実業之日本社)所載。(松下育男)


January 0712008

 売春や鶏卵にある掌の温み

                           鈴木しづ子

戦後まもなくの句。この「鶏卵」は、客にもらったものだろう。身体を張った仕事と引き換えに、当時は貴重で高価だったたまごを得た。まだ客の掌の温みの残ったたまごを見つめていると、胸中に湧いてくるのは限りない虚脱感と自己憐憫の哀感だ。フィクションかもしれないし、事実かもしれない。しかし、そんなことはどうでもよいことだ。ここに現れているのは、戦後の飢餓期にひとりで生きなければななかった若い女性の、一つの典型的な心象風景だからである。もはや幻の俳人と言われて久しい作者については多くの人が言及してきたが、私の知るかぎり、最も信頼できそうなのは『風のささやき しづ子絶唱』(2004・河出書房新社)を書いた江宮隆之の言説である。この本の短い紹介文を書いたことがあるので、転載しておく。「その作品は『情痴俳句』とハヤされ、その人は『娼婦俳人』と好奇の目を向けられた。敗戦直後の俳壇に彗星のように現われ、たちまち姿を消した俳人・鈴木しづ子。本書は、いまなお居所はおろか生死も不明の『幻の俳人』の軌跡を追ったノンフィクション・ノベルである。『実石榴のかつと割れたる情痴かな』『夏みかん酸っぱしいまさら純潔など』。敗戦でいかに旧来の価値観が排されたにせよ、それはまだ理念としてなのであり、若い女性が性を詠むなどは不謹慎極まると受け取る風潮が支配的だった。スキャンダラスな興味で彼女を迎えた読者にも、無理もないところはあるだろう。しかし、彼女への下卑た評価はあまりにもひどかった。著者の関心は、これら無責任な流言から彼女を解き放ち、等身大のしづ子を描き、その句の真の意味と魅力を確認することに向けられている。そのために、彼女の親族や知人に会うなど、十数年に及ぶ歳月が費やされた。彼女の俳句にそそいだ愛情と才能を、スキャンダルの渦に埋没させたままにはしたくなかったからだ。戦時中は町工場に勤め、そこで俳句の手ほどきを受け、名前を知られてからは米兵相手のダンサーとなり、のちに基地のタイピストとして働いた。離婚歴もあり、これらの経歴を表面的につきまぜた『しづ子伝説』は現在でも生きている。著者は彼女の出生時から筆を起こし、実にていねいに『伝説』の数多の虚偽から彼女を救いだしてゆく。同時に折々の作句動機に触れることで、しづ子作品を再評価しているあたりも圧巻だ。これから読む人のために、本書の結末は書かないでおくが、才能豊かで意志の強い若い女性が時代や世間の波に翻弄されてゆく姿はいたましい。いかに彼女が『明星に思ひ返へせどまがふなし』と胸を張ろうともである」。掲句は結城昌治『俳句つれづれ草』所載。(清水哲男)


January 0812008

 人といふかたちに炭をつぎにけり

                           島 雅子

生時代に通っていた茶道の「炭手前」をおぼろげに覚えている。釜の湯を湧かすために熾す炭の姿にまで、美しい手順があるのに驚いたことや、「ギッチョ、ワリギッチョ」と、なにやら呪文めいた言葉とともに何種類かの炭を交互についだことなど、ひとつ思い出せば不思議なほど次々と所作がよみがえる。あの謎の言葉は一体なんだったのだろう。「炭の増田屋オンラインショップ」によると「丸毬打(まるぎっちょ)、割毬打(わりぎっちょ)。道具炭。割毬打は丸毬打を半分に割ったもの」と、あっさり判明した。音で覚えていたものに、文字で出会うと唐突によそよそしくなってしまうものだ。しかし、掲句で使われる「人」という文字は、なんともあたたかい。それは、手元につぐ炭の一本にもう一本を寄り添わせて置いてみたところ「まるで人という字」という発見が、まさに文字そのもののなりたちや、その心根にもつながる喜びと温みを伴いながら読み手に無理なく伝わるからだろう。芯にちらつく火種が、ほの明るく灯る魂のように見え、それを眺める作者の頬をやわらかく照らしている。上手に火が熾ることだけを祈りながら炭に向かい合っていた頃を思い出し、「ギッチョワリギッチョ」ともう一度つぶやいてみる。〈蛇打たれもつとも人に見られけり〉〈和紙に置く丹波の栗と栗の翳〉『土笛』(2007)所収。(土肥あき子)


January 0912008

 古今亭志ん生炬燵でなまあくび 

                           永 六輔

草は過ぎたけれども、今日あたりはまだ正月気分を引きずっていたい。そして、もっともらしい鑑賞もコメントも必要としないような掲出句をながめながら、志ん生のCDでもゆったり聴いているのが理想的・・・・・本当はそんな気分である。いかにも、どうしようもなく、文句なしに「志ん生ここにあり」の図である。屈託ない。炬燵でのんびり時間をもてあましているおじいさま。こちらもつられてなまあくびが出そうである。まことに結構な時間がここにはゆったりと流れている。特に正月の炬燵はこうでありたい。志ん生(晩年だろうか?)に「なまあくび」をさせたところに、作者の敬愛と親愛にあふれた志ん生観がある。最後の高座は七十八歳のとき(1968)で、五年後に亡くなった。高座に上がらなくなってからも、家でしっかり『円朝全集』を読んでいたことはよく知られている。一般には天衣無縫とか豪放磊落と見られていたが、人知れず研鑽を積んでいた人である。永六輔は「東京やなぎ句会」のメンバーで、俳号は六丁目。「ひょんなことで俳句を始めたことで、作詞家だった僕は、その作詞をやめることにもなった」と書く。言葉を十七文字に削ると、作詞も俳句になってしまうようになったのだという。俳句を書いている詩人たちも、気を付けなくっちゃあね(自戒!)。矢野誠一の「地下鉄に下駄の音して志ん生忌」は過日、ここでとりあげた。六丁目には「遠まわりして生きてきて小春かな」という秀句もある。『友あり駄句あり三十年』(1999)所載。(八木忠栄)


January 1012008

 寒星や神の算盤ただひそか

                           中村草田男

たい空気に冴え冴えと光る寒星。星と星が触れればグラスとグラスがかち合う硬質の響きをたてそうだ。だが、そんな想像とは関係なく冬の夜空は星座の配列をくっきりと際立たせている。「算盤(そろばん)」は珠(たま)枠(わく)芯(しん)で構成されている。普段の計算道具は電卓にとってかわられたけど、あの細長くコンパクトな外見からは考えられないくらい大きな桁の加減乗除をこなす。珠の動かしかたをろくに知らない私にとっては無用の長物だったけど、算盤に優れた友達を見るたび羨ましくてしかたなかった。珠を繰るその速さと正確さもそうだけど、目の前に算盤がなくとも指先を少し動かすだけであっというまに暗算をやってのけるのが格好よかった。掲句は「神の算盤」と桁外れにスケールが大きい。この「算盤」は形としては三ツ星などを想像させるが、その背後で天体の運行を支配する大いなる意志をも表現しているのだろう。算盤は軽快に珠をはじいてこその道具。それを「ひそか」と形容することで本来算盤が持っている神秘的な性格を寒星の動きに重ね合わせて連想させる。草田男の句は眼前の事象を手掛かりに遥かな時空へと読み手の心を広げてくれるようだ。『銀河依然』(1953)所収。(三宅やよい)


January 1112008

 現身の暈顕れしくさめかな

                           真鍋呉夫

つしみのかさあらはれしくさめかなと読む。暈は、太陽や月の周辺に現れる淡い光の輪のこと。くしゃみをした瞬間、その人の体の周辺に暈が茫と出現した。くしゃみだからこそ、生きてここに在ることの不思議と有り難さと哀しみが滲む。六十年代のテレビ映画の「コンバット」は一話完結の戦争物として一世を風靡したが、その一話に、戦友の姿が曇って見えると必ずその人が戦死することに気づいた兵士の話があった。兵士は次第に自分の能力が怖くなる。ある日鏡に映った自分の姿が曇って見える。その日は前線から後方へ移動する日で、みなこの兵士を羨んだが、兵士は移動の途中地雷でジープごと吹っ飛ぶ。この話の「曇り」は仕掛けもオチもあるけれど、この句の暈は感覚が中心で、理屈で始末のつくオチがない。どこか生と死の深遠に触れている怖ろしさがある。くさめというおかしみを通して存在の深遠に触れる。こういうのを俳諧の本格というのだろう。『定本雪女』(1998)所収。(今井 聖)


January 1212008

 息白くうれし泪となりしかな

                           阿部慧月

よいよ寒さの増すこの時期、朝、窓を開けて吐いた息が、そのまま目の前で白く変わってゆくのを見るのは、寒いなあと感じると同時に、どこか不思議な気分になる。ふだんは目に見えないものが見えるからだろうか。先日、人であふれかえる明治神宮で、中国人の一団が大きい声で話しながら歩いているのに遭遇。早口の中国語は、鳥語よりもわからないくらいだったが、次々に飛び出す言葉はみるみる白い息となり、混ざり合って消えていった。この句の白い息は、うれし泪になった、という。遠くから、作者に向かって誰かが走って来る。何かとてもうれしいことがあって、それを一刻も早く伝えたかったのか、ただただ作者に会いたかったのか。そして、無言のまま弾んでいる息は、何か言いたげに、白く白く続けざまに出てくるのだが言葉にならない。そのうち、言葉よりも先にうれし泪があふれ出てきたのである。もちろん、息白く、で軽く切れているのであり、息が泪になったわけではないが、言葉よりも先に瞳からあふれ出た感情が、白い息によって、強く読み手に伝わってくる。泪は、涙と同じだが、さんずいに目、という直接的な字体が、なみだをより具体的に感じさせる。『帰雁図』(1993)所収。(今井肖子)


January 1312008

 初しぐれ鳩は胸より歩き出す

                           久留島春子

ぐれにまで「初」がついているのかと、新年に寄せる日本人の思いをあらためて感じ入ります。しぐれは漢字で書けば「時雨」。冬にぱらぱらと降る通り雨のことですが、この漢字を「じう」と読めば「ちょうどよい時に降る雨」という意味を持ちます。「時雨心地(しぐれごこち)」となれば、「涙の出そうな気持ち」になります。さて、句はそんな情けない気持ちとは関係なく、年があらたまって初めて空から落ちてきた冷たい雨を詠んでいます。空を見上げたまなざしを下へもどせば、乾いた地面に雨の模様がつき始めた中を、鳩がおもむろに歩き出しています。その鳩の姿を、見たままに描いています。「初」の文字と「歩き出す」が、新年のことのあらたまりを感じさせます。それも鳩のように大きく胸を張ってという表現が、雨にもかかわらず前に進んで行こうという気概を表しています。それでも句は、全体におちついていて静かな空気を感じさせます。小さな動物に目を凝らすという、そんな行為のやさしさが、おそらく観察の根底にあるからです。『観賞歳時記 冬』(1995・角川書店)所載。(松下育男)


January 1412008

 青春の辞書の汚れや雪催

                           寺井谷子

さに翳りが出始めたことを自覚した年齢での作句だろう。でも「青春」は、まだそんなに遠い日のことではない。だから青春期からの辞書を、引き続き使っているのである。「雪催(ゆきもよい)」は、そんな年代を象徴させた季語でもあるようだ。必要があって辞書を手に取ると、汚れが目立つ。その汚れは、一所懸命に辞書を引いて勉強した頃の証左でもあり、ふっと当時のことがあれこれと思い出されて、作者はしばし甘酸っぱい気分になっている。その時分からたいした時間も経ってはいないのに、もうあの頃のはつらつとした生の勢いからは離れようとしている自分が感じられ、あらためて気を取り直し、青春期のように気を入れて辞書を引こうとしている作者の姿が目に浮かぶ。しかし、作者がこの句で書こうとしたのは青春を失った哀感ではなく、むしろ逆の甘美に近い感興だと思う。何かを失うことだって、甘美に思われることもあるのだ。そして表では、やがて静かに雪が降り出すだろう。しかし我が辞書は、そんな杳い雪のなかでも、あくまでも青春時代のままにはつらつとしてありつづけるだろう。今日、成人の日。『笑窪』(1986)所収。(清水哲男)


January 1512008

 ごみ箱を洗って干してあっ風花

                           薮ノ内君代

五の「あっ風花」は作者のひとりごと。家庭の主婦はまず一日の天気を把握してから本日の家事一切のメニューを組み立てる。わたしのようなぐうたら者でさえ、輝く朝日を浴びたときには、布団も干したい、シーツも洗いたい、ところで猫を洗ったのは一体いつ!?などと考える。まるで人間の身体のどこかにソーラーパネルのようなものが埋め込まれていて、太陽の光にどん欲に反応しているかのようだ。掲句の日和はいたって上々。いつものメニューをこなしたあと、「たまにはごみ箱でも洗おうかしら」と思うくらいのお天気だったに違いない。大物を洗って、とっておきの日向に干して、そしてようやく人心地となったとき、青空から降るプレゼントのような風花に気がつく。雲ひとつない空からきらきらと風花が舞う不思議は、遥か遠くに降った雪が風に乗って届くのだという。風花に気づいた彼女は、ソーラーパネルを全開にして、空からの便りを読み取るのだろう。「ヤマノムコウハ雪デスヨ」。それじゃ、熱い紅茶でも入れてひと休みでもしましょうか。いそいそとパネルをたたんで、あたたかいリビングへと入っていく。〈さくらさくらただ立ち止まってみるさくら〉〈クローバー大人になって核家族〉『風のなぎさ』(2007)所収。(土肥あき子)


January 1612008

 絵の家に寒燈二ついや三つ

                           岡井 隆

語には「春燈」や「秋燈」があって「冬燈=寒燈」もある。寒さのなかの燈火が冴え冴えとともっている。絵に描かれた寒々とした一軒家にともる燈が、二つ三つかすかに見えているというのだろう。「絵の家」は「絵を飾ってある家」とは解釈したくないし、それでは無理がある。日本画でも洋画でもいいだろうけれど、隆は家がぽつりと描かれた絵を前にしている。その家の二つほどの窓にあかりがともっている。いや、よく見ると三つである――そんな絵が見えてくる。この句では「いや三つ」の下五がうまくきいている。いきなり「二つ三つ」と詠んでは陳腐に流れてしまう。歌人・岡井隆は詩も俳句も作る。先ほど手もとに届いた「現代詩手帖」1月号に隆は密度の高い散文詩を書いている。掲出句は1994年1月に、三橋敏雄、藤田湘子、小澤實、大木あまり他との御岳渓谷の宿での句会で投句されたうちの一句で、三人が選んだ。その席では「かわいーなー」とか「絵の家が見えてこない」などといった感想が出された。場所が場所であるだけに、川合玉堂の絵だったのかもしれない。(すぐそばに川合玉堂美術館がある。)このままだと、確かに「絵の家」がはっきり見えてこないかもしれない。しかし、七七を付けて短歌にしたら、「絵の家」はくっきり彫りこまれるのではあるまいか。そんな勝手な想像は、この際許されないのだろうが。加藤楸邨の句「子がかへり一寒燈の座が満ちぬ」を想う。小林恭二『俳句という愉しみ』(1995)所載。(八木忠栄)


January 1712008

 国の名は大白鳥と答えけり

                           対馬康子

鳥が各地の湖に飛来し越冬するシーズン、遠い灰色の空からみるみる大きくなる白鳥の一団が湖に着水する様はさぞ見事なことだろう。「大白鳥」という答えはどこから来たのだろうか。白鳥が旅立った国を問われたのか、質問を受けた人の出身地を問われていたのか、考えれば考えるほどその謎は深い。質問がよくわからなくてとんちんかんな返事をしてしまったとも考えられる。もしそうだとしてもこの答えはしごくロマンチックだ。「国の名」と「大白鳥」と関係なさそうなものが直結することで、夜空の白鳥座を連想したり、飛来する白鳥の故郷であるシベリアやロシアの大地を思ったりする。渡り鳥である白鳥は「ここまではロシア」「ここは中国」と、国を区別して飛んでくるわけではない。白鳥にとっては海を越えるとはいえ、ひとつづきの土地であり、北から南の湖へ渡るという本能に従っているだけである。ヒトが普段の生活で意識している国名というものがどれだけ便宜上のものであり、地球的規模からいえば無用なものであるという事実がかえってこの答えから感じられる。日常よくみられる受け答えの勘違い、その呼吸に合わせて広がりのある世界を描き出した句だと思う。『対馬康子集』(2003)所収。(三宅やよい)


January 1812008

 日のあたる硯の箱や冬の蠅

                           正岡子規

の句に日野草城の「日の当る紙屑籠や冬ごもり」を並べて「日のあたる」二句の比較を楽しんでいる。二句とも仰臥の位置からの視線であるところが共通点。二人とも長い病の末結核で世を去った。両者とも日常身辺の限られた範囲の中で、視覚的な物象に句材を得ている。二句の違いというか、それぞれの特徴として、僕は子規の「眼」の凝視の力と、草城のインテリジェンスを思う。子規が見出した「写生」という方法は、生きて在ることの実感を瞬間瞬間の「視覚」によって確認することが起点となっている。子規が詠んだ有名な鶏頭の句も糸瓜の句も、季題の本意や情趣がテーマではなく視覚の角度やそこに乗せる思いがテーマ。この句でも冬の蠅を凝視する子規の「眼」に子規自身の「生」が刻印されているような感じがする。何気ない枕もとの日のあたる硯箱が背景になっていることがさらに鬼気迫るほどのリアリティを見せている。一方、草城の句は、冬ごもり、書き物、反古、紙屑籠という一連の理詰めの連想が起点となっている。つまり草城は自己の病臥の状態から句を詠んでも季題の本意を忘れず、俳諧を意識し、フィクションを演出する。そこに「知」を強烈に働かせないではいられない。「新興俳句」の原動力となった所以である。『日本大歳時記』(1981・講談社)所載。(今井 聖)


January 1912008

 ヴァンゴッホ冷たき耳を截りにけり

                           相生垣瓜人

ッホが自らの耳を傷つけたのは1888年、クリスマスもほど近い12月23日。太陽をもとめて移り住んだ南仏の町アルルで、当時同居し、制作活動を共にしていたゴーギャンとの激しい諍いの果てであったという。春の水に映る跳ね橋、星月夜のカフェ、真夏の太陽そのものの輝きを放つひまわり。ゴッホは、アルルに滞在した四百日余りで、油絵、素描合わせて三百枚以上を描いたといわれている。掲句、実際は耳たぶの先をきり落としたのだというから、切る、ではなく、裁つ、きり離す、の意のある、截る、なのだろう。比較的いつもひんやりしている耳たぶだが、寒さがつのる冬には、ことさらその冷たさが際だつ。作者は、そんな感覚を失ってちぎれそうな自分の耳たぶに触れ、ふとゴッホに思いをはせたのだろうか。右手にカミソリを持ったゴッホが、左手で思わず掴んだ自らの耳たぶ。それは、やわらかくたよりなく、まるで自分自身の弱さの象徴のように思えたのかもしれない。冷たし、にある悲しみは、熱い血となって、その傷口から流れ出たことだろう。この後、ゴーギャンはタヒチに移り住み、ゴッホは1890年、三十七年の生涯を自らの手で閉じたのだった。『新日本大歳時記』(1999・講談社)所載。(今井肖子)


January 2012008

 冬の雨下駄箱にある父の下駄

                           辻貨物船

関脇の、靴を収納する場所を今でも「下駄箱」というのだなと、この句を読みながら思いました。わたしが子供の頃には、それでも下駄が何足か下駄箱の中に納まっていました。けれど、マンションに「下駄箱」とは、どうにも名称がしっくりいきません。下駄というと、「鼻緒をすげる」というきれいな日本語を思い浮かべます。「すげる」というのは「挿げる」と書いて、「ほぞなどにはめ込む」という意味です。「ほぞ」という言葉も、なかなか美しくて好きです。さて掲句、たえまなく降り続く冬の雨から、玄関の引き戸を開けて、視線は薄暗い下駄箱に向かいます。その一番上の棚に、父親の大きな下駄がきちんと置かれています。寒い湿気が玄関の中に満ち、しっとりとした雰囲気を感じることができます。句は、父の下駄が下駄箱の中にあると、そこまでしか言っていません。しかしわたしにはこれが、「父の不在」を暗示しているように読めてしまいます。勝手な想像ですが、この家の主はもう亡くなっているのかもしれません。それでも日々履いていた下駄だけは、下駄箱のいつもの場所に置いておきたいという思いが込められているように感じるのです。この世の玄関に、その人がふっともどってきたときに、すぐに取り出せるように。『新選俳句歳時記』(1999・潮出版社)所載。(松下育男)


January 2112008

 何もなし机上大寒来てゐたり

                           斎藤梅子

寒は「太陽が黄経三百度の点を通過するとき」と、歳時記に書いてある。……と言われても、よくわかりませんが(笑)。要するに、寒さの絶頂期ということだ。この机は居間や書斎のそれではないだろう。たとえば客間に据えてある黒檀か何かの机である。昔、母方の祖母の実家に厄介になっていたことがあるが、その家には玄関近くに大きな客間があった。ふだんは使われていない部屋だから、なんだか一年中寒々とした様子があった。たまに入ることがあると、真ん中に置かれている大きな机の上にはむろん何も置かれておらず、夏場でもひんやりとした感じだったことを覚えている。作者はそうした部屋に、たまたま大寒の日に入ったのだ。それでなくとも寒いのに、火の気のないがらんとした部屋の机の上には何もなく、いよいよ寒さが身に沁みて感じられたのだった。いや、何もないのではなくて、なんと「大寒が来ていた」と書かれているのは、フィクションというよりもほとんど実感からの即吟だろう。咄嗟に、そう思えてしまったのである。私はあまり擬人法を好きではないけれど、こうした咄嗟のインプレッションを述べるような場合には、ぴったり来る場合もあることはある。『現代俳句歳時記・冬』(学習研究社・2004)所載。(清水哲男)


January 2212008

 いきいきと雪の雫の竹箒

                           菊田一平

年の東京は積もるような雪はまだ降っていないが、油断していると慣れない雪に往生することになる。門までの踏み石や、家の前のわずかな通り道だけでも、降り積もり固く凍りつかない前に雪を払っておくことは、なかなかの大仕事だ。ひと仕事が済んで、下げられた竹箒から働く人が流す汗のようにぽたぽたと雫がしたたり落ちている。「いきいきと」の形容を命ないものに結びつけるとき、過剰な主観に辟易することも多いが、竹箒にはついさきほどまで握られていた持ち主の体温がありありと残っているように感じられるためか、無理なく受け入れることができる。箒は利き腕や使い方によって、微妙な具合に癖もつくものだ。こうなると箒という道具は単なる掃除用具ではなく、ごく個人的な、気に入りの万年筆のペン先などに感じる、減り具合まで愛おしむことができる特別なもの、自分の分身のように思えてくる。ところで、「竹箒」で検索すると上位に表示される「天才バカボン」で登場するレレレのおじさんだが、彼が電気店の社長であり、妻は既に他界、五つ子が五組で25人の独立した子供がいるという克明な背景に思わず仰天したことも今回の竹箒検索のおまけである。〈なやらひの鬼の寝てゐる控への間〉〈仏蘭西に行きたし鳥の巣を仰ぎ〉『百物語』(2007)所収。(土肥あき子)


January 2312008

 荒縄で己が棺負ふ吹雪かな

                           真鍋呉夫

句は穏かに楽しみたい、という人にとって掲出句は顔をそむけたくなるかもしれない。花鳥風詠などとはほど遠い世界。「荒縄」「棺」「吹雪」――句会などで、これだけ重いものが十七文字に畳みこまれていると、厳しく指摘されるだろうと思われる。私などはだからこそ魅かれる。私は雪国育ちだが、このような光景を見たことはない。けれども荒れ狂う吹雪のなかでは、おのれがおのれの棺を背負う姿が、夢か現のようにさまよい出てきても、なんら不思議ではない。吹雪というものは尋常ではない。人が生きるという生涯は、おのれの棺を背負って吹雪のなかを一歩一歩進むがごとし、という意味合いも読みとることができるけれど、それでは箴言めいておもしろくない。おのれがおのれの棺を背負っている。いや、じつはおのれの棺がおのれを抱きすくめている、そんなふうに逆転して考えることも可能である。生きることの《業》と呼ぶこともできよう。両者を括っているのは、ここはやはり荒縄でなくてはならない。呉夫の代表句に「雪女見しより瘧(おこり)おさまらず」がある。「雪女」も「雪女郎」も季語にある。しかし、それは幻想世界のものとして片づけてしまえば、それまでのものでしかない。「己が棺負ふ」も同様に言ってしまっては、それまでであろう。容赦しない雪が、吹雪が、「雪女」をも「おのれの棺負うおのれの姿」をも、夢現の狭間に出現させる、そんな力を感じさせる句である。掲出句にならんで「棺負うたままで尿(しと)する吹雪かな」の一句もある。『定本雪女』(1998)所収。(八木忠栄)


January 2412008

 寒月や猫の夜会の港町

                           大屋達治

の句の舞台はフェリーや貨物船の停泊する大きな港ではなく、海沿いの道を車で走っているとき現れたかと思うとたちまち行過ぎてしまう小さな漁師町がふさわしい。金魚玉のような大きな電球を賑やかに吊り下げたイカ釣り漁船がごたごた停泊していて、波止場にたむろする猫たちがいる。彼らは家から出さぬように可愛がられた上品な飼い猫ではなく、打ち捨てられた魚の頭や贓物を海鳥と争って食べるふてぶてしい面構えのドラ猫が似合いだ。すばしっこくてずる賢くて、油断のならない眼を光らせた猫たちが互いの縄張りを侵さない距離をおいて身構える。寒月が冴えわたる夜、そんな猫たちがトタンの屋根の上に、船着場のトロ箱のそばに、黒い影を落としている。互いにそっぽを向いて黙って座っているのか、それとも朔太郎の「猫」に出てくる黒猫のように『おわあ、こんばんは』『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』と鳴き交わしているのか。どちらにしても三々五々集まってくる猫たちの頭上には寒月が白い光を放っている。「夜会」というちょっと気取った言葉が反語的に響いて、港町の猫たちの野趣をかえって際立たせるように思える。『寛海』(1999)所収。(三宅やよい)


January 2512008

 わが掌からはじまる黄河冬の梨

                           四ッ谷龍

解したり組み立てたり、言葉の要素である意味とイメージのジグゾーパズルを楽しめる作品。「掌」から手相はすぐ出る。手相の中心に走る生命線や運命線から、俯瞰した河の流れが浮かぶ。河から「黄河」が連想される。アマゾン川やインダス川でなくて黄河なのは三音の韻の問題が主である。「はじまる」で映像的シーンを重ねる手法が思われる。手相に接近したカメラはやがて滔滔たる黄河を映し出す。「冬」は「わが」とつながる。「冬」は内部世界の暗部を象徴する。「梨」は「黄河」とつながる。梨、水、流れ、河、黄河の連想つながりである。整理すると、「わが」は「冬」と、「黄河」は「掌」と、「梨」は「黄河」とそれぞれつながる。それらの関係を一度絶ってバラバラにして今度は別の組み合わせにしてみる。なぜか。意味を分断して視覚的なシーンを固定せず、イメージのふくらみをもたせるためである。一度つながった言葉は相手を引き離されて別の相手と組まされる。強引に別の相手と組まされた組み合わせは意外なイメージを形成する。その意外さが「視覚」を超えることを作者は意図している。そうやって一度バラバラにして「意外性」を意図したあと、うまくいかなければ、もう一度バラして現実の「写生」にもどす手もある。言葉はどうにでも組み立て可能だ。作品の成否は別にして。別冊俳句『平成俳句選集』(2007)所載。(今井 聖)


January 2612008

 雪片のつれ立ちてくる深空かな

                           高野素十

週、火曜日の夜。冷え冷えとした夜道で、深い藍色の空に白々と冴える寒満月を仰ぎながら、これは予報どおり雪になるかもしれない、と思った。翌朝五時に窓を開けると、予想に反していつもの景色。少しがっかりして窓を閉めようとすると、ふわと何かが落ちてきた。あ、と思って見ていると、ひとつ、またひとつ、分厚く鈍い灰色の雲のかけらが零れるように、雪が落ち始めたのだった。すこし大きめの雪のひとひらひとひらが、ベランダに、お隣の瓦屋根に、ゆっくり着地しては消えていく。それをぼんやり眺めながら、「雪片」という言葉と、この句を思い出した。その後、東京にしては雪らしい雪となったが、都心では積もるというほどでもなく、霙に変わっていった。長く新潟にいた作者であり、この句、雪国のイメージと、つれ立ちて、の言葉に、雪がたくさん降っているような気がしていたが、違うのかもしれない。雨とは違って、その一片ずつの動きが見える雪。降り始めたばかりの雪は、降る、というより確かに、いっせいにおりてくる、という感じだ。やがて、すべてのものを沈黙の中に覆いつくす遙かな雪雲を見上げ、長い冬が始まったことを実感しているのだろうか。『雪片』(1952)所収。(今井肖子)


January 2712008

 書物の起源冬のてのひら閉じひらき

                           寺山修司

味はそれほどに複雑ではありません。てのひらを閉じたり開いたりしていたら、なんだかこれが、書物のできあがった発想の元だったんじゃないかと、感じたのです。では、てのひらの何が、書物に結びついたのでしょうか。大きさでしょうか、厚さでしょうか、あるいは視線を向けるその角度でしょうか。また、てのひらを開いたり閉じたりするたびに違う思いがわいてくる。そのことが、本のページを繰る動作につながったのでしょうか。それとも、てのひらに刻まれた皺のどこかが、知らない国の不思議な文字として、意味をもって見えたのでしょうか。「冬の」という語が示しているように、このてのひらは、寒さにかじかんで、ゆっくりと開かれたようです。その動きのゆるやかさが、思考の流れに似ていたのかもしれません。ともかく、書物はなぜできたのかという発想自体が、寺山修司らしい素直さと美しさに満ちています。そんな感傷的な思いにならべて、具体的な身体の動きを置くという行為の見事さに、わたしはころりと参ってしまうのです。『新選俳句歳時記』(1999・潮出版社)所載。(松下育男)


January 2812008

 今宵炉に桜生木も火となりぬ

                           吉田汀史

者に聞いたわけではないが、この句は謡曲「鉢木(はちのき)」を踏まえていると思う。私くらいの年代から上の人なら、誰もが知っている有名な伝説だ。「鉢木」とは盆栽である。ある大雪の夜、旅僧に身をやつした北条時頼が、上野国佐野で佐野源左衛門常世のもとに宿を求めた。貧乏な常世は何ももてなすものがないので、大事にしていた盆栽の梅・桜・松を惜しげもなく焚いて暖をとらせた。後に鎌倉からの召集に真っ先に駆けつけたとき(これが「いざ鎌倉」の語源)に、時頼から一夜のもてなしへの返礼として、梅・桜・松の名を持つ三つの土地を賜った、という話である。句の作者は、本当に桜の生木を燃やしたのだろう。そのときに、ふとこの話を思い出し、まさに「いざ鎌倉」的なたぎるものを身内に感じたのに違いない。生木は燃えにくい。が、いったん燃え出すと火勢が強く、その火照りは枯れ木の比ではない。だから「火となりぬ」というわけだが、故なくか故あってか、燃える生木の火照りさながらに、かっと身内に熱いものがたぎってくる感じが良く出ている。「合本俳句歳時記」(1987・角川書店)所載。(清水哲男)


January 2912008

 春待つや愚図なをとこを待つごとく

                           津高里永子

辞苑の「愚図(ぐず)」の項は、「動作がにぶく決断の乏しいこと。はきはきしないこと。またそういう人」と、まるで役に立たぬ人のようにばっさり斬られている。しかし「ぐず」という日本語には、ことに女性が異性に対して言葉に出す場合には、単に侮蔑だけではなく、「宿六」などと同じ甘やかなのろけも多少含まれる。この語感の、のんびりとしたぬくみが、春待ちの気分と掲句をしっくり結びつけているところだろう。春が訪れるまでの三寒四温。あたたかかったり寒かったり、せっかちのわたしなどは「一体今日はどっちなの」と、どこに向けるともなく八つ当たりしてしまうのだが、これを「愚図な男」と形容したところにも、待つ側の余裕や貫禄が感じられ、おおらかに心地良い。まだまだ寒い日が続くが、日脚は着実に伸びている。ぐずで一途ゆえに切ないまでに魅力的な男、といえば思いっきりベタではあるけれど山本周五郎の『さぶ』でも読んで、今年はのんびり春を待とうかと思う。〈見えてくる綿虫じつとしてゐれば〉〈仕事しに行くかマフラー二重巻〉『地球の日』(2008)所収。(土肥あき子)


January 3012008

 悔もちてゆく道ほそし寒椿

                           村野四郎

ゆえの「悔(くい)」なのかはわからない。けれども、よほどずしりと重たく身にこたえるような「悔」なのであろう。自分がかかえてしまった「悔」の大きさに比べて、自分が今たどる道はあまりに細く、頼りなく感じられるのであろう。道に沿って咲いている寒椿が、かろうじてポッとかすかな慰めのように感じられるが、身も心もやはり寒々しい。寒椿は言うまでもなく寒中に咲く花で、冬椿とも呼ばれる早咲きの椿である。掲出句からは、どうしようもなくひっそりと淋しげに咲いている寒椿の気配が伝わってくる。「悔もちてゆく」身には、その気配がいっそうせつなく感じられる反面、かすかな慰めにもなっているのであろう。敗戦後、「風船句会」という詩人たちの句会があり、四郎がその句会に出席したときに作ったものであり、「食器洗ふおとも昏れをり寒椿」という一句もならんでいる。句会の常連メンバーは田中冬二、城左門、安藤一郎をはじめ、顔ぶれはだいたい戦中に解散した「風流陣」という俳句誌に寄っていた詩人たちだった。四郎は当時、「現代詩としての俳句」というエッセイを「新俳句」誌に発表したりして、俳句に対する造詣が深かった。その詩には、俳句に打ちこんだ者のセンスがしっかり生きている。彼はすでに大正末期に俳句誌「層雲」に数年属していたことがあり、「私は詩人になる前に俳人であった」と明言している。自由律俳句から自由詩へ移行した珍しいケースと言えよう。しかし、四郎には句集は一冊もない。『文人俳句歳時記』(1969)所載。(八木忠栄)


January 3112008

 山々をながめて親を手放す日

                           佐藤みさ子

きてゆく限り人間は一人。日々「家族」に囲まれて孤独を紛らわせていても、いつか親は子と別れ、子は老いた親を見送る日が来る。「手放す日」とは親との永遠の別れの日なのか、親を他所へ送り出す日なのか。いずれにせよ子供を独立させるのとは違うやるせなさが漂う。「山々をながめて」という何気ない行為が親を手放すという尋常ならざる出来事とつながっていることで日常に隠されている恐ろしさ、さびしさを際立たせる。俳句の季語のように共通普遍なイメージを喚起させる言葉の力学を用いない川柳は、普段の言葉で日常の深い裂け目を書いてみせる形式である。「味方ではないが家族が二、三人」「何ももう産まれぬ家に寝静まる」など、シニカルな視点で現代の家族の距離感や空白感が描かれている。親族の肩書きを持っていても心が離れれば近くにいて遠慮がないだけに致命的な戦いになってしまうこともある。ただならぬ関係のまま形だけ持続している家族だってあるだろう。いま、この世の中で家族とはどういう存在なのか。自らの身を時代の鏡にうつしだして語られる言葉は人が本来有している淋しさを感じさせるとともに私たちが身を置く人間関係の痛い部分に直に触れてくるようだ。『呼びにゆく』(2007)所収。(三宅やよい)




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