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January 0112008

 妻よ天井を隣の方へ荒れくるうてゆくあれがうちの鼠か

                           橋本夢道

けましておめでとうございます。末永くよろしくの思いとともに、自由律の長〜い一句を掲句とした。子年にちなんで、ねずみが登場する句を選出してみたら、あるわあるわ150以上のねずみ句が見つかった。以前猫の句を探したときにもその数に驚いたが、その需要の元となるねずみはもっと多いのが道理なのだと納得はしたものの、現代の生活ではなかなか想像できない。しかし、〈長き夜や鼠も憎きのみならず 幸田露伴〉、〈新藁やこの頃出来し鼠の巣 正岡子規〉、〈鼠にジヤガ芋をたべられて寝て居た 尾崎放哉〉、〈しぐるるや鼠のわたる琴の上 与謝蕪村〉、〈寒天煮るとろとろ細火鼠の眼 橋本多佳子〉などなど、それはもう書斎にも寝室にも台所にも、家でも外でもそこらじゅうに顔を出す。どこにいても決してありがたくない存在ではあるが、あまりに日常的なため、迷惑というよりも「まいったなあ」という感じだ。掲句の屋根の上を走るねずみの足音にもにくしみの思いは感じられない。荒々しく移動していくねずみに一体なにごとが起きたのか、天井を眺めて苦笑している姿が浮かぶ。おそらく呼びかけられた妻も、また天井裏続きのお隣さんもおんなじ顔をして天井を見上げているのだろう。『橋本夢道全句集』(1977)所収。(土肥あき子)


January 0812008

 人といふかたちに炭をつぎにけり

                           島 雅子

生時代に通っていた茶道の「炭手前」をおぼろげに覚えている。釜の湯を湧かすために熾す炭の姿にまで、美しい手順があるのに驚いたことや、「ギッチョ、ワリギッチョ」と、なにやら呪文めいた言葉とともに何種類かの炭を交互についだことなど、ひとつ思い出せば不思議なほど次々と所作がよみがえる。あの謎の言葉は一体なんだったのだろう。「炭の増田屋オンラインショップ」によると「丸毬打(まるぎっちょ)、割毬打(わりぎっちょ)。道具炭。割毬打は丸毬打を半分に割ったもの」と、あっさり判明した。音で覚えていたものに、文字で出会うと唐突によそよそしくなってしまうものだ。しかし、掲句で使われる「人」という文字は、なんともあたたかい。それは、手元につぐ炭の一本にもう一本を寄り添わせて置いてみたところ「まるで人という字」という発見が、まさに文字そのもののなりたちや、その心根にもつながる喜びと温みを伴いながら読み手に無理なく伝わるからだろう。芯にちらつく火種が、ほの明るく灯る魂のように見え、それを眺める作者の頬をやわらかく照らしている。上手に火が熾ることだけを祈りながら炭に向かい合っていた頃を思い出し、「ギッチョワリギッチョ」ともう一度つぶやいてみる。〈蛇打たれもつとも人に見られけり〉〈和紙に置く丹波の栗と栗の翳〉『土笛』(2007)所収。(土肥あき子)


January 1512008

 ごみ箱を洗って干してあっ風花

                           薮ノ内君代

五の「あっ風花」は作者のひとりごと。家庭の主婦はまず一日の天気を把握してから本日の家事一切のメニューを組み立てる。わたしのようなぐうたら者でさえ、輝く朝日を浴びたときには、布団も干したい、シーツも洗いたい、ところで猫を洗ったのは一体いつ!?などと考える。まるで人間の身体のどこかにソーラーパネルのようなものが埋め込まれていて、太陽の光にどん欲に反応しているかのようだ。掲句の日和はいたって上々。いつものメニューをこなしたあと、「たまにはごみ箱でも洗おうかしら」と思うくらいのお天気だったに違いない。大物を洗って、とっておきの日向に干して、そしてようやく人心地となったとき、青空から降るプレゼントのような風花に気がつく。雲ひとつない空からきらきらと風花が舞う不思議は、遥か遠くに降った雪が風に乗って届くのだという。風花に気づいた彼女は、ソーラーパネルを全開にして、空からの便りを読み取るのだろう。「ヤマノムコウハ雪デスヨ」。それじゃ、熱い紅茶でも入れてひと休みでもしましょうか。いそいそとパネルをたたんで、あたたかいリビングへと入っていく。〈さくらさくらただ立ち止まってみるさくら〉〈クローバー大人になって核家族〉『風のなぎさ』(2007)所収。(土肥あき子)


January 2212008

 いきいきと雪の雫の竹箒

                           菊田一平

年の東京は積もるような雪はまだ降っていないが、油断していると慣れない雪に往生することになる。門までの踏み石や、家の前のわずかな通り道だけでも、降り積もり固く凍りつかない前に雪を払っておくことは、なかなかの大仕事だ。ひと仕事が済んで、下げられた竹箒から働く人が流す汗のようにぽたぽたと雫がしたたり落ちている。「いきいきと」の形容を命ないものに結びつけるとき、過剰な主観に辟易することも多いが、竹箒にはついさきほどまで握られていた持ち主の体温がありありと残っているように感じられるためか、無理なく受け入れることができる。箒は利き腕や使い方によって、微妙な具合に癖もつくものだ。こうなると箒という道具は単なる掃除用具ではなく、ごく個人的な、気に入りの万年筆のペン先などに感じる、減り具合まで愛おしむことができる特別なもの、自分の分身のように思えてくる。ところで、「竹箒」で検索すると上位に表示される「天才バカボン」で登場するレレレのおじさんだが、彼が電気店の社長であり、妻は既に他界、五つ子が五組で25人の独立した子供がいるという克明な背景に思わず仰天したことも今回の竹箒検索のおまけである。〈なやらひの鬼の寝てゐる控への間〉〈仏蘭西に行きたし鳥の巣を仰ぎ〉『百物語』(2007)所収。(土肥あき子)


January 2912008

 春待つや愚図なをとこを待つごとく

                           津高里永子

辞苑の「愚図(ぐず)」の項は、「動作がにぶく決断の乏しいこと。はきはきしないこと。またそういう人」と、まるで役に立たぬ人のようにばっさり斬られている。しかし「ぐず」という日本語には、ことに女性が異性に対して言葉に出す場合には、単に侮蔑だけではなく、「宿六」などと同じ甘やかなのろけも多少含まれる。この語感の、のんびりとしたぬくみが、春待ちの気分と掲句をしっくり結びつけているところだろう。春が訪れるまでの三寒四温。あたたかかったり寒かったり、せっかちのわたしなどは「一体今日はどっちなの」と、どこに向けるともなく八つ当たりしてしまうのだが、これを「愚図な男」と形容したところにも、待つ側の余裕や貫禄が感じられ、おおらかに心地良い。まだまだ寒い日が続くが、日脚は着実に伸びている。ぐずで一途ゆえに切ないまでに魅力的な男、といえば思いっきりベタではあるけれど山本周五郎の『さぶ』でも読んで、今年はのんびり春を待とうかと思う。〈見えてくる綿虫じつとしてゐれば〉〈仕事しに行くかマフラー二重巻〉『地球の日』(2008)所収。(土肥あき子)


February 0522008

 いちまいの水となりたる薄氷

                           日下野由季

季に水の上にうっすらと張った氷を透明な蝉の羽に似ているということで「蝉氷(せみごおり)」と呼ぶが、立春を迎えた後では薄氷となる。うすごおり、うすらい、はくひょう、どんな読み方をしても、はかなさとあやうさの固まりのような言葉だ。日にかざし形状の美しさを見届けられる硬質感を持つ蝉氷と、そっと持ち上げれば指と指の間でまたたくまに水になってしまうような薄氷、そのわずかな差に春という季節が敏感に反応しているように思う。自然界のみならず、生活のなかで氷はきわめて身近な存在だが、個体になった方が軽くなる液体はおおよそ水だけ、という科学的不思議がつい頭をもたげる。この現象への詳細な根拠については、普段深く考えないことにする扉に押し込んでいるのだが、こんな時ふいに開いてしまい、結局理解不能の暗部へとつながっている。そのせいか「氷がとける」とは、どこか「魔法がとける」に通い合い、掲句の「いちまいの水」になるという単純で美しい事実が、早春の光によって氷が元の身体に戻ることができた、という児童文学作品のような物語となってあらためて立ち現れてくるのだった。〈はくれんの祈りの天にとどきけり〉〈ふゆあをぞらまだあたたかき羽根拾ふ〉『祈りの天』(2008)所収。(土肥あき子)


February 1222008

 翼なき鳥にも似たる椿かな

                           マブソン青眼

句の「翼なき鳥」という痛ましい姿に、デュマ・フィスの椿姫を重ねる読者は私だけではないだろう。『椿姫』は、社交界で「椿姫」とうたわれた美しい娼婦マルグリットと青年アルマンの悲恋の物語であるが、その名のゆえんは、ドレスの胸元に月の25日は白い椿、あと5日間を赤い椿を付けていたということからだった。この艶やかな描写に今でもはっと息をのむ。日本から西洋に渡った椿は、寒い季節でもつややかな葉や花を鑑賞することができることから「東洋のバラ」と呼ばれ、社交界ではこぞって椿の切り花を手にしていたといわれる。情熱の花として愛されているヨーロッパの椿に引きかえ、日本では美しくもあるが花ごと落ちることで不吉な側面も持っており、掲句が持つ印象は更に陰翳を濃くする。椿の樹下はまるで寿命の尽きた鳥たちの墓場でもあるように。〈鯉幟おろして雲の重みかな〉〈ああ地球から見た空は青かった〉『渡り鳥日記』(2008)所収。(土肥あき子)


February 1922008

 ふらここや空の何処まで明日と言ふ

                           つつみ眞乃

日二十四節気でいうところの雨水(うすい)。立春と啓蟄に挟まれたやや地味な節気である。暦便覧には「陽気地上に発し、雪氷とけて雨水となれば也」とあり、天上から降るものが雪から雨に替わり、積もった雪も溶け始める頃を意味する。三島暦では「梅満開になる」と書かれている通り、少しあたたかい地域ではもうそこかしこで春を実感することができるだろう。掲句では「ふらここ」が春の季語。空中に遊ぶ気分は春がもっともふさわしい。ぶらんこを思いきり漕ぐとき、一番高い場所ではいつもは見えない空の端を一瞬だけ見ることができる。なんとなくちらっと見えたあたりに本物の春がきているような、ずっと向こうの明日の分の空を覗くような気分は楽しいものだ。しかしふと、丸い地球には日付変更線が確かにどこかに引かれていて、はっきりあそこは今現在も今日ではないのだと考えているうちに、くらくらと船酔いの心地にもなるのだった。〈息かけて鏡の春と擦れ違ふ〉〈羽抜鳥生きて途方に暮れゐたる〉『水の私語』(2008)所収。(土肥あき子)


February 2622008

 あいまいなをとこを捨てる春一番

                           田口風子

週土曜日、2008年2月23日。関東地方では昨年より9日遅く春一番が吹いた。鉄道は運転を一時中止し、老朽化したわが家を揺らすほどの南風は、春を連れてくるというより、冬を吹き飛ばす奔出のエネルギーを感じる。だからこそ、過去を遮断し決断する掲句の意気込みがぴったりくるのだろう。先月末に〈春待つや愚図なをとこを待つごとく 津高里永子〉を採り上げたが、掲句がハッピーエンドの後に控えた後日談に思えてしかたがない。冬の間、かわいいと思った不器用な男も、春先になればなぜか欠点ばかりが見えてくる。なにもかもすてきに思えるロマンス期が過ぎて、恋愛の継続に不安や疑問が頭をもたげる時期に激しい春一番が背中を押してくれたようなものだ。しかし、春一番が吹いたあとは、寒冷前線南下の影響で必ず冷たい日々が待っている。捨てた女の方にだってすぐに幸せが待っているわけではない。どちらも本物の春を目指してがんばれ♪〈秋の声聞く般若面つけしより〉〈すひかづら後ろより髪撫でらるる〉『朱泥の笛』(2008)所収。(土肥あき子)


March 0432008

 白魚のいづくともなく苦かりき

                           田中裕明

タクチイワシなどの稚魚であるしらすと同様、白魚(しらうお)もなにかの稚魚だとばかり思っていたが、成長しても白魚は白魚。美しく透き通る姿のままで一生を終える魚だった。鮎やワカサギなどと近い種類というと滑らかな身体に納得できる。また「しろうお」はハゼの仲間で別種だという。ともあれ、どちらも姿のまま、ときには生きたまま食される魚たちである。「おどり」と呼ばれる食し方には、いかにも初物を愛でる喜びがあるとはいえ、ハレの勢いなくしては躊躇するものではなかろうか。矢田津世子の小説『茶粥の記』に出てくる「白魚のをどり食ひ」のくだりは、朱塗りの器に泳がせた白魚を「用意してある柚子の搾り醤油に箸の先きのピチピチするやつをちよいとくぐらして食ふんだが、その旨いことつたらお話にならない。酢味噌で食つても結構だ。人によつてはポチツと黒いあの目玉のところが泥臭くて叶はんといふが、あの泥臭い味が乙なのだ。」と語られる。筆致の素晴らしさには舌を巻くが、意気地のない我が食指は一向に動かない。だからこそ掲句の「いづくともなく」湧く苦みに共感するのだろう。味覚のそれだけではなく、いのちを噛み砕くことに感じる苦みが口中をめぐるのである。『夜の客人』(2005)所収。(土肥あき子)


March 1132008

 摘草や一人は雲の影に入る

                           薬師寺彦介

よいよ日差しも本格的に春の明るさとなり、野にしゃがんで若草に手を伸ばしたくなる陽気となった。「摘草(つみくさ)」とは「嫁菜(よめな)・蓬(よもぎ)・土筆(つくし)・蒲公英(たんぽぽ)・芹(せり)など食用になる草を摘むこと」と歳時記にはあるが、柔らかな春の草は思わず触れてみたくなるものだ。目指す草を摘むとなると、始めはなかなか見つからないものが、だんだんとそればかりが目につくようになり、我を忘れて歩を進め、気がつくと思わぬ場所まで移動していることがある。太陽がぬくぬくと背中をあたため、視線は一途に地面だけを見つめているときに、唐突に目の前が暗くなる。大きな雲がゆっくりと動いたために起こるほんのひとときの日陰が、おどろくほどの暗闇に陥ったような心細さを感じさせるのだ。掲句はその様子を外側から見ている。白昼の野原で、雲の影が移動しながらゆっくりと人を飲み込む。それはまるで、邪悪な黒い手がじわじわと後ろから迫るのをむざむざ見ているような、妙な禍々しさも感じさせる。春の野に差し込む日差しが万華鏡のようにめくるめき、光があやなす不思議な一瞬である。〈尾根といふ大地の背骨春の雷〉〈春一番鍬の頭に楔打つ〉『陸封』(2006)所収。(土肥あき子)


March 1832008

 生まれては光りてゐたり春の水

                           掛井広通

まれたての水とは、地に湧く水、山から流れ落ちる水、それとも若葉の先に付くひと雫だろうか。どれもそれぞれ美しいが、「ゐたり」の存在感から、水面がそよ風に波立ち「ここよここよ」と、きらめいている小川のような印象を受ける。春の女神たちが笑いさざめき、水に触れ合っているかのような美しさである。春の水、春の雨、春雷と春の冠を載せると、どの言葉も香り立つような艶と柔らかな明るさに包まれる。小学校で習ったフォークダンス「マイムマイム」は、水を囲んで踊ったものだと聞いたように覚えている。調べてみるとマイムとはヘブライ語で水。荒地を開拓して水を引き入れたときの喜びの踊りだという。命に欠かせぬ水を手に入れ、それがこんなにも清らかで美しいものであることを心から喜んでいる感動が、動作のひとつひとつにあらわれている。今も記憶に残る歌詞の最後「マイム ヴェサソン」は「喜びとともに水を!」であった。なんとカラオケにもあるらしいので、機会があったら友人たちとともに身体に刻まれた喜びの水の踊りを、あらためて味わってみたいものだ。〈両の手は翼の名残青嵐〉〈太陽ははるかな孤島鳥渡る〉『孤島』(2007)所収。(土肥あき子)


March 2532008

 爪先の方向音痴蝶の昼

                           高橋青塢

在では自他ともに認める方向音痴だが、それを確信したのは多摩川の土手に立ち、川下が分からなかったときだ。ゆるやかな流れの大きな川を目の前に、さて右手と左手、どちら側に海があるのかが分からない。なにか浮いたものが流れてはいないかと目を凝らしていると、「そんなことも分からないのか」とどっと笑われた。一斉に笑ってはいたが、おそらくその中の二、三人はわたし同様、風の匂いをくんくん嗅いでみたり、わけもわからず鳥の飛ぶ方角を眺めたりしていたと思うのだが。最近は携帯電話で現在位置を指示し、目的地をナビゲートしてくれる至れり尽くせりのサービスもあるが、表示された地図までもぐるぐると回して見ているのだからひどいものだ。そこを掲句では、下五の「蝶の昼」で、舞う蝶に惑わされたかのようにぴたりと作用させた。英語でぎっくり腰を「魔女の一撃」と呼ぶように、救いがたい方向音痴を「蝶を追う爪先」と、どこかの国では呼んでいるのかとさえ思うほどである。たびたび幻の蝶を追いかける我が爪先が、掲句によって愚かしくも愛おしく感じるのだった。〈青き踏む名を呼ぶほどに離れては〉〈このあたり源流ならむ囀れる〉『双沼』(2008)所収。(土肥あき子)


April 0142008

 部屋ごとに時の違へる万愚節

                           金久美智子

愚節(ばんぐせつ)、四月馬鹿、エイプリールフール。といっても、実際に他愛ない嘘をわざわざこの日のために用意している人は、少なくともわたしのまわりにはいない。起源はヨーロッパとも、インドともいわれるが、日本では「嘘」や「馬鹿」など、マイナスイメージの言葉を使っているせいか、いまひとつ浸透していない祭事のひとつだろう。しかし、俳句になるとその文字が持つ捨てがたい俳味が際立つ。身の回りの「愚かであること」はたやすく発見できるものだが、それは排除につながらず、どこか愛おしくなるようなものが多い。掲句は時計が時計の役目を果たしていないという現実である。しかし、そこには時を刻むことが唯一の使命のはずの時計に、それぞれ進み癖やら遅れ癖を持っているという人間臭さを愛おしむ視線がある。さらには「リビングは少し早めに行動したいから5分進めて」「寝室のはぴったり合わせて」という人為的な行為と相まって、ますます時計は時計の本意から外れていく。結局テレビに表示される時計を見るだけのために、テレビを付けたりしているのである。それにしても現代の家電にはあらゆるものに時計が付いている。微妙に狂った時計たちが休むことなくせっせと時を刻んでいるのかと思うと、ちょっと切ない。「続氷室歳時記」(2007・邑書林)所載。(土肥あき子)


April 0842008

 ぬかづけばわれも善女や仏生会

                           杉田久女

釈迦さまの誕生日を祝う仏生会は4月8日だが、近所の護国寺では日曜日に合わせて先日6日に行われた。色とりどりの生花をあしらった花御堂のなかには「天上天下唯我独尊」と言われたという右手を天に掲げたポーズで誕生仏が納められる。可愛らしい柄杓でお釈迦さまの身体に甘茶をかける習わしは、誕生のときに九龍が天から清らかな香湯を吐き注いで、産湯をつかわせた伝説に基づくものだという。晴天のもと、桜吹雪のなか、善男善女の列に加わり、薄甘いお茶を押しいただけば、まったく無責任に「ああ、極楽ってよさそうなところ」などと夢想する。雪のクリスマス、花の仏生会、信仰心にほとんど関係なくそれぞれの寿ぎの祝典を抵抗なく受け入れているのは、どちらも根幹には命の誕生という健やかさが共通して流れているからだと考える。しかし、掲句はこの場にぬかづいている自分をわずかに持て余す心地が頭をもたげている。それは、さまざまな欲に満ちた日常もそれほど悪くないことを知っているわが身が、眼前に繰り広げられている極楽絵巻のなかにさりげなく溶け込むことができないのだ。孤独でシニカルな視線は、常に影となって久女の身に寄り添っている。『杉田久女句集』(1969)所収。(土肥あき子)


April 1542008

 戸袋に啼いて巣立の近きらし

                           まついひろこ

会の生活を続けていると、雨戸や戸袋という言葉さえ遠い昔のものに思える。幼い頃暮らしていた家では、南側の座敷を通して六枚のがたつく木製の雨戸を朝な夕なに開け閉てしていた。雨戸当番は子供にできる家庭の手伝いのひとつだったが、戸袋から一枚ずつ引き出す作業はともかく、収納するにはいささかのコツが必要だった。いい加減な調子で最初の何枚かが斜めに入ってしまうと、最後の一枚がどうしてもぴたりとうまく収まらず、また一枚ずつ引き出しては入れ直した泣きそうな気分が今でもよみがえる。一方、掲句の啼き声は思い切り健やかなものだ。毎日使用しない部屋の戸袋に隙を見て巣をかけられてしまったのだろう。普段使わないとはいえ、雛が無事巣立つまで、決して雨戸を開けることができないというのは、どれほど厄介なことか。しかし、やがて親鳥が頻繁に戸袋を出入りし始めると、どうやら卵は無事孵ったらしいことがわかり、そのうち元気な雛の声も聞こえてくる。雨戸に閉ざされた薄暗い一室は、雛たちのにぎやかな声によってほのぼのと明るい光が差し込んでいるようだ。年代順に並ぶ句集のなかで掲句は平成12年作、そして平成15年には〈戸袋の雛に朝寝を奪はれし〉が見られ、鳥は作者の住居を毎年のように選んでは、巣立っていることがわかる。鳥仲間のネットワークでは「おすすめ子育てスポット」として、毎年上位ランキングされているに違いない。〈ふるさとは菫の中に置いて来し〉〈歩かねばたちまち雪の餌食なる〉『谷日和』(2008)所収。(土肥あき子)


April 2242008

 掃除機は立たせて仕舞ふ鳥雲に

                           杉山久子

集には同じ季語を使った〈あをぞらのどこにもふれず鳥帰る〉という叙情的な魅力ある句もおさめられているが、掲句により惹かれるのは、それぞれの居場所ということについて唐突に考えさせられるところだ。掃除機は毎日使用されるものだが、その収納場所、おそらくそれはどの家庭でも部屋のどこかの片隅にすっきり納められたところで、生活空間が戻ってくる。春のある日、彼方へと飛び立つ鳥たちの姿を思い、鳥もまた雲へと消えたところが、正しい収まりどころであるかのような、漠然としたやりきれないわだかまりが、ほんのちらっと作者の胸をよぎったのだろう。その「ほんのちらっと」思う心が、年代や性別を越えて重なり合うことで、俳句にはさざなみのような共感を生まれる。壮大な自然の営みや、日常の瑣末な空虚感などにまったく触れることなく、しかしそれはいつまでも揺れ残るぶらんこのように、心の中に存在し続ける。「藍生」「いつき組」所属している作者の第二回芝不器男俳句新人賞の副賞として出版された本書は、写真との組み合わせで構成され、美しく楽しく値段も手頃。〈人入れて春の柩となりにけり〉〈白玉にやさしきくぼみあれば喰む〉『春の柩』(2007)所収。(土肥あき子)


April 2942008

 春昼や魔法の利かぬ魔法瓶

                           安住 敦

空状態を作って保温するという論理的な英語「vaccum bottle」に対し、何時間でもお湯が冷めない現象に着目し、日本では「魔法瓶」と命名された。どんなものにもよく書けるマジックインキ、愛犬に付いた草の実(おなもみ)がヒントとなったマジックテープなども、従来にない不思議な力を強調した「魔法/マジック」の用法だが、「魔法瓶」はなかでも突出して絶妙なネーミングである。他にも、来週に控える「黄金週間」やめくるめく「万華鏡」なども腕の立つ日本語職人の手になるものと思われる。掲句は、茶の間に鎮座するポットの仰々しいネーミングにくすりと笑う大人の視線だが、いかにもうららかな春の昼であることが、笑いを冷笑から、ユニークな名称の背景にある人間の体温を感じさせている。希代の発明でもあった魔法瓶だが、落とすと割れてしまうという頑丈さに欠ける一面と、1980年代の水を入れると自動的に沸かし、そのまま保温できる電気ポットの登場で、またたく間に姿す。わずか後十数年で「魔法」の名を返上することになろうとは作者にも思いもよらぬことだったろう。しかも最近では、自販機で「あたたかい天然水」が売られている。飲料水を持ち歩くのがごく普通になった現代ではことさら驚くことではないのかもしれないが、白湯の出現にはいささかびっくりした。『柿の木坂だより』(2007)所収。(土肥あき子)


May 0652008

 肉の傷肌に消えゆくねむの花

                           鳥居真里子

が自然に治癒していく様子、といってしまえばそれまでのことが、作者の手に触れると途端に謎めく。血の流れていた傷口がふさがり、乾き、徐々に姿を変え、傷痕さえ残さず元の肌に戻ることを掲句は早送りで想像させ、それはわずかにSF的な映像でもある。外側から消えてしまった傷は一体どこへいくのだろう。身体の奥のどこかに傷の蔵のような場所があって、生まれてから今までの傷が大事にしまい込まれているのかもしれない。一番下にしまわれている最初の傷は何だったのだろう。眠りに落ちるわずかの間に、傷の行方を考える。夜になると眠るように葉が閉じる合歓の木は、その名の通り眠りをいざなう薬にもなるという。習性と効用の不思議な一致。同じ句集にある〈陽炎や母といふ字に水平線〉も、今までごく当然と思っていたものごとが、実は作者の作品のために用意された仕掛けでもあるかのようなかたちになる。これから母の字の最後の一画を引く都度、丁寧に水平線を引く気持ちになることだろう。明日は母の誕生日だ。〈幽霊図巻けば棒なり秋の昼〉〈鶴眠るころか蝋燭より泪〉『月の茗荷』(2008)所収。(土肥あき子)


May 1352008

 どこまでが血縁椎の花ざかり

                           山崎十生

父母、父母、兄弟姉妹、叔父叔母、従兄弟。どうかすると、同じ名字を持つというだけで、近しい気持ちになることさえある。種族を血によってグループ分けする血族は、一番たやすく結ばれる共同体である。しかし、容易に断ち切ることのできない血の関係は、そこかしこでうとましく個人の人生につきまとう。マルセル・プルーストは『失われた時を求めて』で、焼き菓子のマドレーヌの香りと味覚を過去への重大なキーワードとしたが、掲句は椎の花の形状や濃厚な匂いを先祖から脈々とつながる血を意識するきっかけとした。椎の花房は咲くというより、葉陰から吹き出すようにあらわれ、重苦しい病み疲れたような匂いを放つ。そして、まるで望まれていない花であることを承知しているように、あっけないほどあっさりと花の時期を終え、細かな残骸をいっしんに散り敷き、漂っていた匂いもまたふいに消えてしまう。花の盛りを意識すればするほどに、しばらくすれば一切が消えてしまう予感にとらわれる。裾広がりの血のつながりに思いを馳せることは、うっとおしさと同時に、別れの悲しみをなぞっていくようにも思えてくる。『花鳥諷詠入門』(2004)所収。(土肥あき子)


May 2052008

 刻いつもうしろに溜まる夏落葉

                           岡本 眸

(かし)や楠(くす)などの常緑樹は緑の葉のまま冬を過ごしたあと、初夏に新葉が出てから古い葉を落とす。常磐木(ときわぎ)落葉とも呼ばれる夏の落葉と、秋から冬にかけての落葉との大きな違いは、新しい葉に押し出されるように落ちる葉なので、どれほど散ろうと決して裸木にならないことだろう。鬱蒼と青葉を茂らせたまま、枯葉を降らせる姿にどことなく悲しみを感じるのは、常緑樹という若々しい見かけの奥のひそやかな営みが、ふと顔を見せるためだろうか。紅葉という色彩もなく、乾ききった茶色の葉が風にまかせてぽろりぽろりと落ちていく。しかも、常緑樹はたいてい大樹なので、ああ、この茂りのなかにこんなにも枯れた葉があったのかと驚くほどきりもなく続き、掃いても掃いてもまた同じ場所に枯葉が落ちることになる。掲句はまた、時間は常にうしろに溜まっていくという。「うしろ」のひと言が、ひっそりと過去の時間をふくらませ、孤独の影をまとわせる。生きるとは、きっとたくさんの時間の落葉を溜めていくことなのだろう。『流速』(1999)所収。(土肥あき子)


May 2752008

 打ち返す波くろぐろと梅雨の蝶

                           一 民江

週22日の沖縄の梅雨入りを皮切りに、今年もじわじわと日本列島が梅雨の雲におおわれていく。先日、雨降りのなかで、今までに見た最高に美しい空の思い出を話していたら、「南アルプス甲斐駒ケ岳で見た空は青を通り越して黒く見えた」という方がいた。あまりに透明度が高く、その向こうにある宇宙が透けて見えたのだと思ったそうだ。それが科学的根拠に基づいているのかそうでないかは別として、聞いている全員がふわっと肌が粟立つ思いにかられた。美しさのあまり、見えないはずの向こうが見えてしまうという恐怖を共有したのだった。掲句の波も、見えるはずのない海の奥底を映し出してしまったような恐ろしさがある。そこに梅雨のわずかな晴れ間を見つけ、蝶が波の上を舞う。春の訪れを告げる軽やかな蝶たちと、夏の揚羽などの豪奢な蝶の間で、梅雨の蝶はあてどなく暗く重い。タロットカードに登場する蝶は魂を象徴するという。もし掲句のカードがあったとしたら、「永遠に続く暗雲に翻弄される」とでも言われそうな衝撃の絵札となることだろう。〈よく動く兜虫より買はれけり〉〈梅を干す梅の数だけ手を加へ〉〈送り火のひとりになつてしまひけり〉『たびごころ』(2008)所収。(土肥あき子)


June 0362008

 ばかてふ名の花逞しや能登荒磯

                           棚山波朗

キダメギクやジゴクノカマノフタなど、気の毒な名を持つ植物は多いが、作者の故郷能登では浜辺の植物ハマゴウ(浜栲)を「バカノハナ」と呼ぶそうだ。一時期を福井県三国に暮らした三好達治に『馬鹿の花』という詩があり「花の名を馬鹿の花よと/童べの問へばこたへし/紫の花」と始まることから、北陸一帯での呼称のようだ。ハマゴウは浜一面を這うように茂り、可憐な紫色の花を付ける。(「石川の植物」HP→ハマゴウ)花は香り高く、葉や実は生薬となり、また乾燥させた葉をいぶして蚊やりとして使用したりと、生活にもごく密着していたはずの植物が、どうしてこんな名前を持つことになったのだろう。さらに言えば、当地の方言で「ばか」を意味する言葉は「だら」を一般的に用いるということもあり、「ばか」という言葉そのものにもどことなく疎外された語感を伴う。掲句では、作者が哀れな名を持ちながら砂浜を一心に埋める花にけなげなたくましさを感じ、また険しい能登海岸の表情をひととき明るくする花の名が「ばか」であることに一抹の悲しみや、わずかな自嘲も含まれているように思う。命名の由来にはあるいは、灼けた砂の上に、誰も見ていないのに、馬鹿みたいにこんなに咲いて…、といういじらしさが込められているのかもしれない。『宝達』(2008)所収。(土肥あき子)


June 1062008

 海底のやうに昏れゆき梅雨の月

                           冨士眞奈美

雨の月、梅雨夕焼、梅雨の蝶など、「梅雨」が頭につく言葉には「雨が続く梅雨なのにもかかわらず、たまさか出会えた」という特別な感慨がある。また、前後に降り続く雨を思わせることから、万象がきらきらと濡れて輝く様子も思い描かれることだろう。夕暮れの闇の不思議な明るみは確かに海底の明度である。空に浮かぶ梅雨の月が、まるで異界へ続く丸窓のように見えてくる。ほのぼのと明けそめる暁を「かはたれ(彼は誰)」と呼ぶように、日暮れを「たそかれ(誰そ彼)」と呼ぶ。どちらも薄暗いなかで人の顔が判別しにくいという語源だが、行き交う誰もが暗がりに顔を浸し輪郭だけを持ち歩いているようで、なんともいえずおそろしい。昼と夜の狭間に光りと影が交錯するひとときが、梅雨の月の出現によって一層ミステリアスで美しい逢魔時(おうまがとき)となった。〈白足袋の指の形に汚れけり〉〈産み終へて犬の昼寝の深きかな〉〈噛みしめるごまめよ海は広かつたか〉俳句のキャリアも長い作者の第一句集『瀧の裏』(2008)所収。(土肥あき子)


June 1762008

 標本へ夏蝶は水抜かれゆく

                           佐藤文香

虫が苦手なわたしは、掲句によって初めて蝶のHPで採取と収集の方法を知った。そこにはごく淡々と「蝶を採取したら網の中で人差し指と親指で蝶の胸を持ち、強く押すとすぐ死にます」とあり、続いて「基本的に昆虫類の標本は薬品処理する必要がありません。日陰で乾かせばすぐにできあがります」と書かれていた。こんな世界があったのだ。虫ピンというそのものズバリの名の針で胸を刺され、日陰でじっと乾いていく蝶の姿を思うと、やはり戦慄を覚えずにはいられない。掲句はこの処理の手順を「水抜かれ」のみで言い留めた。命、記憶、痛み、恐怖のすべてを切り捨て、唯一生の証しであった水分だけで全てを表現した。出来上がった美しい標本を眺めながら考えた。丸々太った芋虫から、蛹のなかで完全にパーツを入れ替え、全く別な肢体を得る蝶のことである。今までの劇的な変化を考えれば、水分をすっかり抜かれることくらい造作もないことで、永遠の命を得るために標本への道を、蝶が自ら選択しているのではないのかと。〈朝顔や硯の陸の水びたし〉〈へその緒を引かれしやうに鳥帰る〉『海藻標本』(2008)所収。(土肥あき子)


June 2462008

 邪悪なる梅雨に順ひをれるなり

                           相生垣瓜人

ひは、従うの意。毎日続く邪悪な雨に渋々従っているのだという作者には、他にも〈梅雨が来て又残生を暗くせむ〉〈梅雨空の毒毒しきは又言はじ〉〈卑屈にもなるべく梅雨に強ひられし〉と、よほど梅雨の時期がお嫌いだったようである。雲に隠れた名月を眺め、炎天にわずかな涼しさを詠み取る俳人に「あいにくの天気はない」というが、これもやせ我慢や強がりから出る言葉だろう。そこに風雅の心はあるのだと言われれば納得もするが、たまには「嫌いは嫌い」とはっきり言ってくれる句にほっとし、清々しさを感じることもある。『雨のことば辞典』(倉嶋厚著)に「雨禁獄(あめきんごく)」という言葉を見つけた。大切な日に雨ばかり降ることに立腹した白河院が、雨を器にいれて牢屋に閉じ込めた故事によるという。雨乞い、晴乞い、ひいては生け贄をもってうかがいを立てるなど、天災にはきわめてへりくだったやり方が採用されていた時代に、なんと大上段の構えだろう。しかし、この八つ当たり的な措置に愛嬌と童心を感じるのも、また掲句に浮かぶ微笑と等しいように思う。『相生垣瓜人全句集』(2006)所収。(土肥あき子)




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