January 022008
今朝の春玲瓏として富士高し
廣津柳浪
明けてはや二日。冬とはいえ、正月はどこかしら春がいくぶんか近くなった気持ちを抑えきれない。「玲瓏(れいろう)」などという言葉は、今や死語に近いのかもしれない。「うるわしく照りかがやくさま」と『広辞苑』にあるとおり、晴ればれとして曇りのない天気である。霞たなびく春ではない。作者はどこから富士を望んでいるのか知りようもない。まあ、どこからでもよかろう。今でも、都内で高層ビルにわざわざ上がらなくても、思いがけない場所からひょっこりと富士山が見えたりして、びっくりすることがある。そのたびにやっぱり富士ってすげえんだと、改めて思い知らされることになる。空気が澄んでいて、いつもより一段と富士山が高く感じられるのであろう。あたりを払って高く感じられるだけでなく、その姿はいつになく晴ればれとしたものとして感受されている。「今朝の春」という季語は「初春」「新春」「迎春」などと一緒にくくられているところからも、春浅く、まだ春とは名ばかりといったニュアンスが含まれている。作者の頭には「一富士、二鷹、三茄子」もちらついていたのかもしれない。さっそうとしてどこかしらめでたい富士の姿。芭蕉の「誰やらが形に似たりけさの春」は春早々のユーモア。深刻・悲惨な小説を書いた柳浪にしては、からりとして晴朗な新春である。廣津和郎は柳浪の次男。『文人俳句歳時記』(1969)所載。(八木忠栄)
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