リ檀句

January 0212008

 今朝の春玲瓏として富士高し

                           廣津柳浪

けてはや二日。冬とはいえ、正月はどこかしら春がいくぶんか近くなった気持ちを抑えきれない。「玲瓏(れいろう)」などという言葉は、今や死語に近いのかもしれない。「うるわしく照りかがやくさま」と『広辞苑』にあるとおり、晴ればれとして曇りのない天気である。霞たなびく春ではない。作者はどこから富士を望んでいるのか知りようもない。まあ、どこからでもよかろう。今でも、都内で高層ビルにわざわざ上がらなくても、思いがけない場所からひょっこりと富士山が見えたりして、びっくりすることがある。そのたびにやっぱり富士ってすげえんだと、改めて思い知らされることになる。空気が澄んでいて、いつもより一段と富士山が高く感じられるのであろう。あたりを払って高く感じられるだけでなく、その姿はいつになく晴ればれとしたものとして感受されている。「今朝の春」という季語は「初春」「新春」「迎春」などと一緒にくくられているところからも、春浅く、まだ春とは名ばかりといったニュアンスが含まれている。作者の頭には「一富士、二鷹、三茄子」もちらついていたのかもしれない。さっそうとしてどこかしらめでたい富士の姿。芭蕉の「誰やらが形に似たりけさの春」は春早々のユーモア。深刻・悲惨な小説を書いた柳浪にしては、からりとして晴朗な新春である。廣津和郎は柳浪の次男。『文人俳句歳時記』(1969)所載。(八木忠栄)


January 0912008

 古今亭志ん生炬燵でなまあくび 

                           永 六輔

草は過ぎたけれども、今日あたりはまだ正月気分を引きずっていたい。そして、もっともらしい鑑賞もコメントも必要としないような掲出句をながめながら、志ん生のCDでもゆったり聴いているのが理想的・・・・・本当はそんな気分である。いかにも、どうしようもなく、文句なしに「志ん生ここにあり」の図である。屈託ない。炬燵でのんびり時間をもてあましているおじいさま。こちらもつられてなまあくびが出そうである。まことに結構な時間がここにはゆったりと流れている。特に正月の炬燵はこうでありたい。志ん生(晩年だろうか?)に「なまあくび」をさせたところに、作者の敬愛と親愛にあふれた志ん生観がある。最後の高座は七十八歳のとき(1968)で、五年後に亡くなった。高座に上がらなくなってからも、家でしっかり『円朝全集』を読んでいたことはよく知られている。一般には天衣無縫とか豪放磊落と見られていたが、人知れず研鑽を積んでいた人である。永六輔は「東京やなぎ句会」のメンバーで、俳号は六丁目。「ひょんなことで俳句を始めたことで、作詞家だった僕は、その作詞をやめることにもなった」と書く。言葉を十七文字に削ると、作詞も俳句になってしまうようになったのだという。俳句を書いている詩人たちも、気を付けなくっちゃあね(自戒!)。矢野誠一の「地下鉄に下駄の音して志ん生忌」は過日、ここでとりあげた。六丁目には「遠まわりして生きてきて小春かな」という秀句もある。『友あり駄句あり三十年』(1999)所載。(八木忠栄)


January 1612008

 絵の家に寒燈二ついや三つ

                           岡井 隆

語には「春燈」や「秋燈」があって「冬燈=寒燈」もある。寒さのなかの燈火が冴え冴えとともっている。絵に描かれた寒々とした一軒家にともる燈が、二つ三つかすかに見えているというのだろう。「絵の家」は「絵を飾ってある家」とは解釈したくないし、それでは無理がある。日本画でも洋画でもいいだろうけれど、隆は家がぽつりと描かれた絵を前にしている。その家の二つほどの窓にあかりがともっている。いや、よく見ると三つである――そんな絵が見えてくる。この句では「いや三つ」の下五がうまくきいている。いきなり「二つ三つ」と詠んでは陳腐に流れてしまう。歌人・岡井隆は詩も俳句も作る。先ほど手もとに届いた「現代詩手帖」1月号に隆は密度の高い散文詩を書いている。掲出句は1994年1月に、三橋敏雄、藤田湘子、小澤實、大木あまり他との御岳渓谷の宿での句会で投句されたうちの一句で、三人が選んだ。その席では「かわいーなー」とか「絵の家が見えてこない」などといった感想が出された。場所が場所であるだけに、川合玉堂の絵だったのかもしれない。(すぐそばに川合玉堂美術館がある。)このままだと、確かに「絵の家」がはっきり見えてこないかもしれない。しかし、七七を付けて短歌にしたら、「絵の家」はくっきり彫りこまれるのではあるまいか。そんな勝手な想像は、この際許されないのだろうが。加藤楸邨の句「子がかへり一寒燈の座が満ちぬ」を想う。小林恭二『俳句という愉しみ』(1995)所載。(八木忠栄)


January 2312008

 荒縄で己が棺負ふ吹雪かな

                           真鍋呉夫

句は穏かに楽しみたい、という人にとって掲出句は顔をそむけたくなるかもしれない。花鳥風詠などとはほど遠い世界。「荒縄」「棺」「吹雪」――句会などで、これだけ重いものが十七文字に畳みこまれていると、厳しく指摘されるだろうと思われる。私などはだからこそ魅かれる。私は雪国育ちだが、このような光景を見たことはない。けれども荒れ狂う吹雪のなかでは、おのれがおのれの棺を背負う姿が、夢か現のようにさまよい出てきても、なんら不思議ではない。吹雪というものは尋常ではない。人が生きるという生涯は、おのれの棺を背負って吹雪のなかを一歩一歩進むがごとし、という意味合いも読みとることができるけれど、それでは箴言めいておもしろくない。おのれがおのれの棺を背負っている。いや、じつはおのれの棺がおのれを抱きすくめている、そんなふうに逆転して考えることも可能である。生きることの《業》と呼ぶこともできよう。両者を括っているのは、ここはやはり荒縄でなくてはならない。呉夫の代表句に「雪女見しより瘧(おこり)おさまらず」がある。「雪女」も「雪女郎」も季語にある。しかし、それは幻想世界のものとして片づけてしまえば、それまでのものでしかない。「己が棺負ふ」も同様に言ってしまっては、それまでであろう。容赦しない雪が、吹雪が、「雪女」をも「おのれの棺負うおのれの姿」をも、夢現の狭間に出現させる、そんな力を感じさせる句である。掲出句にならんで「棺負うたままで尿(しと)する吹雪かな」の一句もある。『定本雪女』(1998)所収。(八木忠栄)


January 3012008

 悔もちてゆく道ほそし寒椿

                           村野四郎

ゆえの「悔(くい)」なのかはわからない。けれども、よほどずしりと重たく身にこたえるような「悔」なのであろう。自分がかかえてしまった「悔」の大きさに比べて、自分が今たどる道はあまりに細く、頼りなく感じられるのであろう。道に沿って咲いている寒椿が、かろうじてポッとかすかな慰めのように感じられるが、身も心もやはり寒々しい。寒椿は言うまでもなく寒中に咲く花で、冬椿とも呼ばれる早咲きの椿である。掲出句からは、どうしようもなくひっそりと淋しげに咲いている寒椿の気配が伝わってくる。「悔もちてゆく」身には、その気配がいっそうせつなく感じられる反面、かすかな慰めにもなっているのであろう。敗戦後、「風船句会」という詩人たちの句会があり、四郎がその句会に出席したときに作ったものであり、「食器洗ふおとも昏れをり寒椿」という一句もならんでいる。句会の常連メンバーは田中冬二、城左門、安藤一郎をはじめ、顔ぶれはだいたい戦中に解散した「風流陣」という俳句誌に寄っていた詩人たちだった。四郎は当時、「現代詩としての俳句」というエッセイを「新俳句」誌に発表したりして、俳句に対する造詣が深かった。その詩には、俳句に打ちこんだ者のセンスがしっかり生きている。彼はすでに大正末期に俳句誌「層雲」に数年属していたことがあり、「私は詩人になる前に俳人であった」と明言している。自由律俳句から自由詩へ移行した珍しいケースと言えよう。しかし、四郎には句集は一冊もない。『文人俳句歳時記』(1969)所載。(八木忠栄)


February 0622008

 転がりしバケツ冷たき二月かな

                           辻貨物船

の句は貨物船(征夫の俳号)の句のなかで、けっして上出来というわけではない。けれども、いかにも貨物船らしい無造作な手つきが生きている句で、私には捨てがたい。「冷たき」と「二月」はつき過ぎ、などと人は指摘するかもしれない。しかし、寒さをひきずりつつも二月には、二月の響きには、もう春の気配がすでにふくらんできている。厳寒を過ぎて、春に向かいつつある陽気のなかで、ふと目にしたのが、そこいらに無造作に転がっているバケツである。じかにさわってみなくても、バケツに残る冷たさは十分に感じられるのである。「バケツ」という名称も含めてまだ冷たく寒々しい。バケツを眺めている作者の心のどこかにも、何かしら寒々としたものが残っていて、両者は冷たい二月を共有しているのであろう。同じ光景を、俳人ならば、もっと気のきいた詠み方をするのかもしれない。無造作に見たままを詠んだところにこそ、貨物船俳句の味わいが生まれている。掲出句の前と後には「大バケツかかえて今日のおぼろかな」と「新しきバケツに跳ねる春の魚」という句がそれぞれはべっている。私たちの生活空間から次第に姿を消しつつある金属バケツ、その姿かたちと響きとが甦る如月二月はもう春である。蛇足ながら、『貨物船句集』には切れ字「かな」を用いた句が目立つ。226句のうち43句である。つまり5.3句に1句の「かな」ということになる。それらは屈託ない世界の響きを残す。『貨物船句集』(2001)所収。(八木忠栄)


February 1322008

 春雨や人の言葉に嘘多き

                           吉岡 実

岡実のよく知られた句である。人の言葉に嘘が多いということは、今さら改めて言うまでもなく、その通りでございます。この句は「春雨」を配した、ただそれだけのことで一句がすっぱりと立ちあがった。「春雨」と「嘘多き」とが呼応して血がかよいはじめた。そこに短詩型ならではの不思議がある。昨今は「偽」などという文字に象徴されるような安っぽい世相になってしまったけれど、さて、「偽」と「嘘」は微妙にちがう。「偽」は陰湿で悪質である。「嘘」にもピンからキリまでいろいろあるけれども、どこかしらカラリとしていて、それほど悪質とは感じられないのではないか。どこかしら許される余地がありそうだ。「偽」のほうは容赦しがたい。世のなかも人も、嘘を完全に追放してしまったところで、さてキレイゴトで済む、というものではあるまい。そう言えば、世間には「嘘も方便」というしたたかで便利な言い方もある。掲出句はやわらかさのある「春雨」をもってきたことで、全体にユーモラスなニュアンスさえ加わり、俳味も生まれている。どことなく気持ちがいい。ここは「春風」や「春光」では乾き過ぎてしまってふさわしくない。人の言葉の嘘が、ソフトな春雨によってやんわりとつつまれた。文学も文芸も虚の世界であり、虚も嘘もない一見きれいな世界などむしろ気持ちが悪いし、味気ないということ。吉岡実が戦前に「奴草」として124句を収めた、その冒頭の句である。陽子夫人が「昭和13年から15年初めにかけて書かれたと思われる」と記している。『赤鴉』(2002)所収。(八木忠栄)


February 2022008

 ひそと来て茶いれるひとも余寒かな

                           室生犀星

春を幾日か過ぎても、まだ寒い日はある。東京に雪が降ることも珍しくない。けれども、もう寒さはそうはつづかないし、外気にも日々どこかしら弛みが感じられて、春は日一日と濃くなってゆく。机に向かって仕事をしている人のところへ、家人が熱い茶をそっと運んできたのだろうか――と読んでもいいと思ったが、調べてみるとこの句は昭和九年の作で「七條の宿」と記されている。さらにつづく句が「祗園」と記されているところから、実際は京都の宿での作と考えられる。宿の女中さんが運んできてくれた茶であろう。ホッとした気持ちも読みとれる。一言「ありがとう」。茶は熱くとも、茶を入れてくれた人にもどこかしらまだ寒さの気配が、それとなく感じられる。その「ひと」に余寒を感受したところに、掲出句のポイントがある。「ひそと来て」というこまやかな表現に、ていねいな身のこなしまでもが見えてくるようである。それゆえかすかな寒さも、同時にそこにそっと寄り添っているようにも思われる。茶をいれるタイミングもきちんと心得られているのだろう。さりげない動きのなかに余寒をとらえることによって、破綻のない一句となった。犀星には「ひなどりの羽根ととのはぬ余寒かな」という一句もある。「ひそと来て」も「羽根ととのはぬ」も、その着眼が句の生命となっている。『室生犀星句集』(1977)所収。(八木忠栄)


February 2722008

 古書市にまぎれて無口二月尽

                           小沢信男

年は閏年(うるうどし)ゆえ二月は二十九日まである。とはいえ、二月の終わり、つまり二月尽である。まだ寒い時季に開催されている古書市であろう。身をすくめるようにして古書を覗いてあるく。汗だくの暑い時季よりも、古書市は寒いときのほうがふさわしい。買う本の目当てがあるにせよ、特にないにせよ、古書探しは真剣そのものとなってしまう。連れ立ってワイワイしゃべくりながら巡るものではあるまい。黙々と・・・・。運よく稀購本を探し当てても声はあげず、表情を少しだけそっとゆるめる程度だが、心は小躍りしている。リュックを背負ったりして、無口居士を決めこみ、時間をたっぷりかけて入念に探しまわる。そんな無口居士がひしめくなかに、自分もどことなくひそかに期待を抱いてまぎれこんでいるのだ。お宝探しにも似た、緊張とスリルがないまぜになったひとときであるにちがいない。ほしい本にはなかなか出くわさない。いっぽうで、もう二月が終わってしまうという、何となくせかされるような一種の切迫感もあるのだろう。ゆったりしたなかにも張りつめた様子が目に見えるようだ。歴史ものや調べものの著作が多い信男ならではの、思いと実感が凝縮されていながらスッと覚めている。無口といえば、信男には「冬の河無口に冬の海に入る」という句もある。掲出句は当初、ほんの62句だけ収めた句集『昨日少年』(1996)に収められた。句集と言っても、一枚のしゃれた紙の表裏に刷りこんで四つに畳んだもので、掲出句は〈春〉の部の二句目にならぶ。全句集『んの字』(2000)所収。(八木忠栄)


March 0532008

 春うらら葛西の橋の親子づれ

                           北條 誠

んなのどかな春の風景はもうなくなった、とは思いたくない。都会を離れれば、こういううららかな親子づれの光景はまだ見られるだろう。いかにものどかで、思わずあくびでも出そうな味わいの景色である。時折、こんな句に出くわすと、足を止めてしばし呼吸を整えたくなる。葛西は荒川を越えた東に位置する江戸川区の土地である。「葛西の橋」を「葛西橋」と特定してもいいように思う。もちろん葛西には旧江戸川にかかる橋もあることはある。江東区南砂と江戸川区葛西を一直線で結ぶ道路の、荒川にかかっているのが葛西橋である。葛西橋は他にも俳句に詠まれていて、のどかな時間がゆったり流れていることもあれば、せつなくも侘しい時間が流れていることもある。「葛西」という川向こうの土地がかもし出すイメージが、「親子づれ」をごく自然に導き出してくれている。小津安二郎(?)か誰かの映画のワンカットで、「葛西橋」とはっきり書かれた木の橋の欄干が映し出された画面が私の記憶に残っている。映画の題名も監督も、今や正確には思い出せない。この「親子」はどんな氏素性をもった親子なのか、何やらドラマの一場面のようにも想像されてくる。北條誠は脚本家として映画「この世の花」をはじめ、多くの小説や脚本を残した。「まつ人もなくて手酌のおぼろかな」「永代の橋の長さや夏祭」等々、気張らず穏かな俳句が多い。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


March 1232008

 炭砿の地獄の山も笑ひけり

                           岡本綺堂

うまでもなく「山笑ふ」も「笑ふ山」も早春の季語である。中国の漢詩集『臥遊録(がゆうろく)』に四季の山はそれぞれこう表現されている。「春山淡冶(たんや)にして笑ふがごとし。夏山は蒼翠にして滴るがごとし。秋山は明浄にして粧ふがごとし。冬山は惨淡として眠るがごとし」と、春夏秋冬まことにみごとな指摘である。日本では今や、炭砿は昔のモノガタリになってしまったと言って過言ではあるまい。かつての炭砿では悲惨なニュースが絶えることがなかった。まさしくそこは「地獄の山」であり「地獄の坑道」であった。多くの人命を奪い、悲惨な事故をつねに孕んでいる地獄のような炭砿にも、春はやってくる。それは救いと言えば救いであり、皮肉と言えば皮肉であった。それにしても「地獄の山」という言い方はすさまじい。草も木もはえない荒涼としたボタ山をも、綺堂は視野に入れているように思われる。ずばり「地獄の・・・・」と言い切ったところに、劇作家らしい感性が働いているように思われる。春とはいえ、身のひきしまるようなすさまじい句である。子規の「故郷(ふるさと)やどちらを見ても山笑ふ」という平穏さとは、およそ対極的な視点が働いている。句集『独吟』をもつ綺堂の「北向きに貸家のつゞく寒さかな」という句も、どこやらドラマが感じられるような冬の句ではないか。『独吟』(1932)所収。(八木忠栄)


March 1932008

 闇のちぶささぐりつつ見し春の夢

                           那珂黙魚

珂黙魚は詩人の那珂太郎。詞書に「幼年時」とある。幼いころ母親に抱かれて、夢うつつのなかで乳房をまさぐりつつ見た春の夢、それはいったいどんな夢だったのだろうか――。もちろん幼年ゆえ記憶にあるわけではない。だいいち幼年そのものが、まるごと夢のようなものであり、闇のようなものであると言えそうである。それもあわあわとして、どこかとりとめのない春の夢そのもののようなものであるにちがいない。いきなり「闇」と詠いだされるが、夜の暗闇のなかで乳房をさぐっている、などと限定して考えてしまうのは、むしろおかしい。幼年の定かではない記憶のなかでのこと。同時に闇そのもののような春の夢を意味しているとも言える。「闇―乳房―春の夢」の連なりがあわあわとした運びのなかで、有機的な相関関係をつくりだしていると言っていい。幼年時の朦朧とした春の夢が、茫漠とした闇のなかで懐かしくも、とりとめもなく広がってゆくように感じられて心地よさが残る。そうした夢のなかに、ゆったりと身をおくことがかなわなくなるのがオトナではないか。他に「ねむたくて眠られぬまま春の夢」という句もある。こちらは幼年ではなく、むしろオトナということになろうか。黙魚は俳句に造詣が深く、眞鍋天魚(呉夫)、司糞花(修)らと句会「雹の会」に所属している。『雹 巻之捌』(2007)所載。(八木忠栄)


March 2632008

 春の風邪声を飾りてゐるやうな

                           高橋順子

うまでもなく「風邪」は冬の季語であり、風邪にまつわる発熱、咳、声、のど、いずれも色気ないことおびただしい。けれども「春の風邪」となると、様相はがらりと一変する。咳もさることながら、鼻にかかった風邪声には(特に女性ならば)どことなく色気がにじんでくるというもの。「春」という言葉のもつ魔力を感じないわけにはいかない。寒い冬に堪えて待ちに待った暖かい春を迎える日本人の思いには、また格別なものがある。秋でも冬でもない、やわらかくてどこかしら頼りない「春の風邪」だからこそ、「声を飾」ることもできるのであろう。声を台無しにしたり壊したりしているのではなく、「飾りて」と美しくとらえて見せたところがポイント。しかも強引に断定してしまうのではなく、「ゐるやうな」とソフトにしめくくって余韻を残した。そこに一段とさりげない色気が加わった。順子は泣魚の俳号をもつ俳句のベテランであり、すでに『連句のたのしみ』(1997)という好著もある。「連れ合い」の車谷長吉と二人だけの《駄木句会》を開いているが、掲出句はその席で作ったもの。この句に対し、長吉は即座に「うまいなあ。○だな。なるほどなあ、これ、うまいわ」と手ばなしで感心している。順子は「実感なんですよ、鼻声の」と応じている。なるほど、いくら「春の風邪」でも、男では「声を飾りて」というわけにはいかない。同じ席で「春めくや社のわきの藁人形」という、長吉を牽制したような句も作られている。『けったいな連れ合い』(2001)所収。(八木忠栄)


April 0242008

 なにほどの男かおのれ蜆汁

                           富士眞奈美

も蜆汁も春の季語である。冬の寒蜆も夏の土用蜆もあるわけだけれど、春がもっともおいしいとされる。もちろん、ここでは蜆そのものがどうのこうのというわけではない。こういう句に出会うと、大方の女性は溜飲をさげるのかもしれない。いや、男の私が読んでも決して嫌味のない句であり、きっぱりとした気持ちよささえ感じる。下五の「蜆汁」でしっかり受けとめて、上五・中七がストンとおさまり、作者のやりきれない憤懣にユーモラスな響きさえ生まれている。蜆の黒い一粒一粒の小粒できちんとしたかたち、蜆汁のあのおいしさとさりげない庶民性が、沸騰している感情をけなげに受けとめている。ここは気どったお吸い物などはふさわしくない。「なにほど」ではない蜆汁だから生きてくる。同じ春でも、ここはたとえば「若布汁」では締まらないだろう。それどころか、気持ちはさらにわらわらと千々に乱れてしまうことになるかもしれない。眞奈美は女優だが、五つの句会をこなしているほどのベテランである。掲出句は、ある人に悪く言われたことがあって、そのときはびっくりしたが、バカバカしいと考え直して作った句だという。「胸のつかえがすーっとおりて・・・・立ち直れた」と語っている。さもありなん。こんな場合、散文や詩でグダグダ書くよりは、五七五でスイと詠んでしまったほうがふっきれるだろう。そこに俳句のちからがある。吉行和子との共著『東京俳句散歩』もある。ほかに「宵闇の小伝馬町を透かしみる」「流れ星恋は瞬時の愚なりけり」などがある。いずれもオトナの句。「翡翠」14号(2008)所載。(八木忠栄)


April 0942008

 恋猫のもどりてまろき尾の眠り

                           大崎紀夫

の交尾期は年に四回だと言われる。けれども、春の頃の発情が最も激しい。ゆえに「恋猫」も「仔猫」も春の季語。あの求愛、威嚇、闘争の“雄叫び”はすさまじいものがある。ケダモノの本性があらわになる。だから「おそろしや石垣崩す猫の恋」という子規の凄い句も、あながち大仰な表現とは言いきれない。掲出句は言うまでもなく、恋の闘いのために何日か家をあけていた猫が、何らかの決着がついて久しぶりにわが家へ帰ってきて、何事もなかったかのごとくくつろいでいる。恋の闘いに凱旋して悠々と眠っている、とも解釈できるし、傷つき汚れ、落ちぶれて帰ってきて「やれやれ」と眠っている、とも解釈できるかもしれない。「まろき尾」という、どことなく安穏な様子からして、この場合は前者の解釈のほうがふさわしいと考えられる。いずれにせよ、恋猫の「眠り」を「まろき尾」に集約させたところに、この句・この猫の可愛さを読みとりたい。飼主のホッとした視線もそこに向けられている。猫の尾は猫の気持ちをそのまま表現する。このごろの都会の高層住宅の日常から、猫の恋は遠のいてしまった。彼らはどこで恋のバトルをくりひろげているのだろうか? 紀夫には「恋猫の恋ならずして寝つきたり」という句もあり、この飼主の同情的な視線もおもしろい。今思い出した土肥あき子の句「天高く尻尾従へ猫のゆく」、こちらは、これからおもむろに恋のバトルにおもむく猫の勇姿だと想定すれば、また愉快。『草いきれ』(2004)所収。(八木忠栄)


April 1642008

 葉脈に水音立てて春キャベツ

                           田村さと子

ャベツは世界各地で栽培されているが、日本で栽培されるようになったのは明治の初めとされる。キャベツは歳時記では夏に類別されているが、葉は春に球形になり、この時季の新キャベツは水気をたっぷり含んでいて、いちばんおいしい。ナマでよし、炒めてよし、煮てよし。掲出句は、まだ収穫前の畑にあって土中から勢いよく吸いあげた水を葉の隅々まで行き渡らせ、しっかりと球形に成長させつつあるのだろう。春キャベツの勢いのよさや新鮮さにあふれている句である。葉脈のなかを広がってゆく水の音が、はっきりと聴こえてくるようでさえある。恵みの雨と太陽によって、野菜は刻々と肥えてゆく。このキャベツを、すでに俎板の上に置かれてあるものとして、水音を聴いているという解釈も許されるかもしれない。俎板の上で、なお生きているものとして見つめている驚きがある。「水音」と「春」とのとりあわせによって、キャベツがより新鮮に感じられ、思わずガブリッとかぶりつきたい衝動にさえ駆られる。先日見たあるテレビ番組――しんなりしてしまったレタスの株の部分を、湯に1〜2分浸けておくと、パリパリとした新鮮さをとり戻すという信じられないような実験を見て、野菜のメカニズムに改めて驚いた。もっともこれはキャベツには通用しないらしい。さと子はラテンアメリカをはじめ、世界中を動きまわって活躍している詩人で、掲出句はイタリア語訳付きの個人句集に収められている。ほかに「井戸水の生あたたかき聖母祭」「通夜更けて雨の重たし桜房」など繊細な句がならぶ。『月光を刈る』(2007)所収。(八木忠栄)


April 2342008

 鶯もこちらへござれお茶ひとつ

                           村上元三

は「春告草」、鰊(にしん)は「春告魚」と呼ばれ、鶯は「春告鳥」と呼ばれる。鶯には特に「歌よみ鳥」「経よみ鳥」という呼び方もある。その姿かたちよりも啼き声のほうが古くから珍重され、親しまれてきた。啼くのはオスのほうである。鶯の啼く声を聞くチャンスは、そう滅多にないけれども、聞いたときの驚きと喜びは何とも言い尽くせないものがある。誰しもトクをした気分になるだろう。しかし、春を告げようとして、そんなにせわしく啼いてばかりいないで、こちらへきて一緒にゆっくりお茶でもいかが?といった句意には、思わずニンマリとせざるを得ない。時代小説家として売れっ子だった元三が、ふと仕事の合間に暖かくなってきた縁側へでも出てきて、鶯の声にしばし聞き惚れているのだろうか。微笑ましい早春のひとときである。「こちらへござれ」とはいい言葉だ。のどかでうれしい響きを残してくれる。妙な気取りのない率直な俳句である。何年前だったかの夏、余白句会の面々で宇治の多田道太郎邸にあそんだ折、邸の庭でしきりに鶯が啼いていたっけ。あれは夏のことだから老鶯だった。歓迎のつもりだったのか、美しい声でしきりに啼いてくれた。春浅い時季の鶯の声はまだ寝ぼけているようで、たどたどしいところがむしろ微笑ましい。元三には「重箱の隅ほじくつて日永かな」「弁慶の祈りの声す冬の海」などの句もあり、どこかしらユーモラスな味わいがあるのが、意外に感じられる。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


April 3042008

 真実の口に入れたし春の恋

                           立川志らく

ーマにある、あの「真実の口」である。サンタ・マリア・イン・コスメディン教会の柱廊にあって、今や観光スポットの一つ。一見無気味な海神トリトーネの顔が口をあけていて、そこへ手を突っこむ。「ウソつきは噛まれる」という愉快な言い伝えがある。私も旅行した際、右手を突っこんだが、幸い噛まれなかった。噛まれなかったことも含めて、その時の私の印象は「がっかり」の一言。ローマ時代の下水溝の蓋だったという説がある。ま、どうでもよろしい。掲出句は恋人同士で手を入れたわけではない。「入れたし」だからまだ入れていなくて、恋人の片方が相手の「真実」をはかりかねていて、試してみたいという気持ちなのだろう。女の子同士や夫婦の観光客が、陽気に手を入れたりしているようだが、そんなのはおもしろくもない。愛をまだはかりかねていて「入れたし」という、ういういしい恋人同士だからスリリングなのだ。しかも、ここは「春の恋」だから、あまりねっとりと重たくはない気持ちがうかがわれる。「真実の口」は言うまでもなく映画「ローマの休日」で有名になってしまった。志らくは映画監督と劇団員の合同句会を毎月開催していて、その宗匠。志らくの「シネマ落語」はよく知られているが、シネマ俳句も多い。「抹茶呑む姿はどこか小津気どり」「晩春や誰でもみんな原節子」などの句があり、曰く「小津は俳句になりやすいが、黒澤は俳句になりません」と。「真実の口」はミッキー・カーチスに似ている、とコメントしている。ハハハハ♪「キネマ旬報」(2008年2月上旬号)所載。(八木忠栄)


May 0752008

 ふるさとの笹の香を咬むちまきかな

                           小杉天外

まき(粽)は端午の節句の頃に作る。関東では柏餅。笹の葉で巻いて蒸したモチ米または団子である。笹の葉で包むと日持ちがいいばかりでなく、笹の香がおいしさをいっそう引き立てる。天外は秋田県の生まれ。ふるさとから送られてきたちまきは、格別なごちそうというわけではないけれど、笹の香に遠いふるさとの香り、ふるさとの様子をしばししのんでいるのだろう。「笹の香」ゆえに「食べる」というよりも「咬(か)む」とアクティブに表現したあたりがポイント。その香を咬めば、ちまきの素朴なおいしさばかりでなく、すっかりご無沙汰しているふるさとの懐かしい人々や、土地のあれこれまでが思い出されるのだろう。かつて笹だんごは家々で作っていたから、私は子どもの頃、裏山へ笹を採りに行かされた。白いモチ米で作ったちまきの笹をむいて、黄粉(きなこ)を付けて食べた。それよりも子どもたちには、なかにアンコが入り草餅で包んだ笹だんごのほうがおいしかった。砂糖の入手が困難だった戦時中は、アンコのかわりに味噌をなかに入れていたっけ。あれには妙なおいしさがあった。食べることもさることながら、祖母や母に教わりながら、慣れない手付きでゆでた笹でくるみ、スゲで結わえる作業に加わるのが、ヘタクソなくせに楽しかった。「越後の笹だんご」は名物として、私のふるさとの駅やみやげもの店で盛んに蒸篭でふかしながら売られているけれど、見向きもしなくなってしまった。夏目漱石の「粽食ふ夜汽車や膳所(ぜぜ)の小商人(こあきうど)」という句も忘れがたい。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


May 1452008

 城址になんにもなくて風薫る

                           江國 滋

事。数年前、所用で大阪へ行った際、時間が妙な具合にあいてしまった。どうしようかとしばし思案。「そうだ」と思いついて出かけたのが大阪城だった。その思い付きが恥ずかしいような嬉しいような・・・。何十年ぶりだった。どこの城も、遠くから眺めているぶんには晴れやかだが、いざやってきてみると観光化してしまい、何かあるようで何もないのが一般的。城主に関する功績なぞも、だいたいが底上げして退屈極まりない。かつての権力の象徴の残骸など好もしいはずがない。民の苦渋と悲鳴が、石垣の一つ一つに滲みついている。城址となれば一層のこと、石垣や草木が哀れをさらしているばかり。歴史の時間などとっくにシラケきっている。観光客がもっともらしく群がっているだけである。辛うじて今時のさわやかに薫る風にホッとしている。あとはなんにもない。なんにもいらない。さて、滋(俳号:滋酔郎)がやってきたのは、「荒城の月」ゆかりの岡城址(大分県)。「東京やなぎ句会」の面々で吟行に訪れた際の収穫。その時、滋は「目によいといわれ万緑みつめおり」という句も投句して、結果二句で優勝したという。小沢昭一著『句あれば楽あり』の吟行報告によれば、城址では、ここは籾倉があった、ここは馬小屋の跡、ここが本丸でした――と「何もない所ばかりのご説明」を受けたという。いずこも似たようなものですね。しかし、眼下にはまぎれもない新緑の田園風景がひろがっていた。ご一行が「なんにもなくて」に共鳴した結果が、最高点ということだったのかもしれない。『句あれば楽あり』(1997)所載。(八木忠栄)


May 2152008

 暫くは五月の風に甘えたし

                           柳家小満ん

木の緑がすっかり濃くなった。若いときは草木の緑などには、目などくれていなかったように思うけれど、年齢を重ねるとともに緑に目を奪われるようになった。緑をさらさら洗うように吹きわたってくる風の心地よさ。寒くもない、暑くもない。掲出句の「五月」は「さつき」と読むべきだろう。薫るようなさわやかな風に身も心もあずけて、いつまでもそうしていたい、「甘え」ていたい――「五月の風」はそんな気持ちにさせてくれる。しかし、もうすぐ汗ばむ暑い夏はすぐそこである。特に近年は、春も初夏もあっという間に過ぎていってしまう。風であれ何であれ、人はふと何かしらに甘えたくなってしまうことがある。それはおそらく束の間のことだろうけれど、許されても良いことではないか。小満ん(こまん)はあの名人桂文楽(八代目)の高座に一目ぼれして、大学を中退して入門した。文楽の内弟子時代に「お前なんぞ、まだ噺家の卵にもなっていないんですよ」と叱られながら厳しく育てられた。小満んには『わが師、桂文楽』という名著がある。他にも何冊かの著書があり、年に一回刊行している句集も二十七冊をかぞえる。「文人落語家」と呼ばれる所以である。その高座は落ち着いたいぶし銀の江戸っ子を感じさせる。歯切れのいい本寸法の口調には、しばし酔わされる心地良さがただよう。「夏帯を一つ叩いて任せあれ」というイキな句もならぶ。『狐火』(2008)所収。(八木忠栄)


May 2852008

 石載せし小家小家や夏の海

                           田中貢太郎

太郎は一九四一年に亡くなっているから、この海辺の光景は大正から昭和にかけてのものか? 夏の海浜とはいえ、まだのどかというか海だけがだだっ広い時代の実景であろう。粗末で小さい家がぽつりぽつりとあるだけの海の村。おそらく気のきいた海水浴場などではないのだろうし、浜茶屋といったものもない。海浜にしがみつくようにして小さな家が点々とあるだけの、ごくありきたりの風景。しかも、その粗末な家の屋根も瓦葺ではなく、杉皮か板を載せて、その上に石がいくつか重しのように載っけられている。いかにも鄙びた光景で、夏の海だけがまぶしく家々に迫っているようだ。「小家小家」が打ち寄せる「小波小波」のようにさえ感じられる。何をかくそう、私の家も昭和二十五年頃まで屋根は瓦葺でもトタンでもなく、大きな杉皮を敷きつめ、その上にごろた石がいくつも載っかった古家だった。よく雨漏りがしていたなあ。貢太郎は高知出身の作家。代表作に『日本怪談全集』があるように、怪談や情話を多く書いた作家だった。そういう作家が詠んだ句として改めて読んでみると、「小家」が何やら尋常のもではないような気もして謎めいてくる。貢太郎の句はそれほど傑出しているとは思われないが、俳人との交際もさかんで多くの句が残されている。「豚を積む名無し小駅の暑さかな」という夏の句もある。「夏の海」といえば、渡邊白泉の「夏の海水兵ひとり紛失す」を忘れるわけにはいかない。『田中貢太郎俳句集』(1926)所収。(八木忠栄)


June 0462008

 満山の青葉を截つて滝一つ

                           藤森成吉

書に「那智の滝」とある。滝にもいろいろな姿・風情があるけれど、那智の滝の一直線に長々と落ちるさまはみごとと言わざるを得ない。すぐそばでしぶきを浴びながら見あげてもよし、たとえば勝浦あたりまで離れて、糸ひくような滝を遠望するのも、また味わいがちがって楽しめる。新緑を過ぎて青葉が鬱蒼としげる山から、まさにその万緑をスパッと截り落とさんばかりの勢いがある。「青葉」「滝」の季重なり、などというケチくさい料簡など叩き落す勢いがここにはある。余計なことは言わずに、ただ「截つて」の一言で滝そのものの様子やロケーションを十二分に描き出して見せた。いつか勝浦から遠望したときの那智の滝の白い一筋が、静止画の傑作のようだったことが忘れられない。ドードーと滝壺に落ちる音が、彼方まで聞こえてくるようにさえ感じられた。「青葉を截つて」落ちる滝が、あたりに強烈な清涼感を広げている。ダイナミックななかにも、「滝一つ」と詠むことで一種の静けさを生み出していることも看過できない。よく似た句で「荒滝や満山の若葉皆震ふ」(夏目漱石)があるが、こちらは「荒」や「震ふ」など説明しすぎている。成吉には「部屋ごとに変はる瀬音や夏の山」という句もあるが、澄んでこまやかな聴力が生きている。左翼文壇で活躍した成吉は詩も俳句も作り、句集『山心』『蝉しぐれ』などがある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


June 1162008

 蛞蝓の化けて枕や梅雨長き

                           高橋睦郎

や、蛞蝓(なめくじ)の本物になど、なかなかお目にかかることはできなくなった。じめじめした梅雨どき、まあ、今なおいるところにはいるけれど。睦郎の連載「百枕」については、2007年7月にも一句とりあげてコメントしたのでくり返さない。その後媒体に変更があって、現在は小澤實の「澤」に連載されている。掲出句は「梅雨枕」という題のもとに十句発表されたなかのもの。この句とならんで「此處はしも蛞蝓長屋梅雨枕」の一句がある。「蛞蝓長屋」は古今亭志ん生が昔住んだ、知る人ぞ知る「なめくじ長屋」を指している。業平橋近くの湿地帯に建てられたこの長屋に、赤貧洗うが如き志ん生は蛞蝓や蚊柱に悩まされながら、家族と昭和三年から七年間ほど住んだ。一晩で蛞蝓が十能にいっぱいとれたという伝説的な長屋。蛞蝓はおカミさんの足に喰いつき、塩などかけても顎で左右によけて這い、夜にはピシッピシッと鳴いた、と志ん生は語っていた。睦郎は好きだったという志ん生や「なめくじ長屋」にもふれているが、蛞蝓が「枕」に化けるというのだから豪儀な句ではないか。この枕、気持ち悪さを通り越して滑稽千万な味わいがある。「なめくじ長屋」の縁の下あたりには、枕ほどの大きさの蛞蝓の主(ぬし)が息を潜めていたかもしれない。蛞蝓が化けたら、いかにも昔風のごろりとした枕にでもなりそうだ。まさしく梅雨どきのヌラッと湿った枕。「梅雨長き」は時間的長さだけではなく、お化け蛞蝓の「長さ」でもあろう。梅雨・蛞蝓・黴――それらを通過しなければ、乾いた夏はやってこない。「澤」(2008年6月号)所載。(八木忠栄)


June 1862008

 ひそと動いても大音響

                           成田三樹夫

季にして大胆な字足らず。舞台の役者の演技・所作は、歌舞伎のように大仰なものは要求されないが、ほんの少しの動きであれ、指一本の動きであれ、テンションが高く張りつめた場面であれば、あたかも大音響のごとく舞台を盛りあげる。大声やダイナミックな動きではなく、小さければ小さいほど、ひそやかなものであればあるほど、逆に観客に大きなものとして感じさせる。舞台の役者はその「ひそ」にも圧縮されたエネルギーをこめ、何百人、何千人の観客にしっかり伝えるための努力を重ねている。たかだか十七文字の造形が、ひそやかな静からゆるぎない巨きな動を生み出そうとしている。舞台上の静と動は、実人生での静と動でもあるだろう。特異な存在感をもった俳優として活躍した三樹夫は、舞台のみならず映画のスクリーン上の演技哲学として、こうした考え方をしっかりもっていたのであろう。ニヒルな存在感を「日本刀のような凄みと色気を持ち合わせた名脇役」と評した人がいた。三樹夫は惜しくも五十五歳で亡くなった。私は縁あって告別式に参列した際、三樹夫に多くの俳句があって遺稿句集としてまとめたい、という話を耳にした。死の翌年に刊行された。「鯨の目人の目会うて巨星いず」「友逝きて幽明界の境も消ゆ」などの句がならぶ。インテリで文学青年だった。掲出句はどこやら尾崎放哉を想起させる。「大音響」といえば、富澤赤黄男に「蝶墜ちて大音響の結氷期」があった。皮肉なことに、赤黄男のほうが演技している。『鯨の目』(1991)所収。(八木忠栄)


June 2562008

 蝋の鮨のぞく少女のうなじ細く

                           高見 順

にかぎらず、レストランのウィンドーにディスプレイされている食品サンプルの精巧さには驚かされる。みごとなオブジェ作品である。昔は蝋細工だったが、現在は塩化ビニールやプラスチックを素材にしているようだ。食品サンプルはもともと日本独自のものであり、その精巧さはみごとである。目の悪い人には本物に見えてしまうだろう。掲出句の「蝋の鮨」は鮨屋のウィンドーというよりは、鮨からラーメンまでいろいろ取りそろえているファミリー・レストラン入口のウィンドーあたりではないか。蝋細工のさまざまなサンプルがならんでいるなかで、とりわけおいしそうな鮨に少女は釘付けになっているといった図である。たとえファミリー・レストランであるにしても、鮨の値段は安くはない。食べたいけれど、ふところと相談しているか、またはその精巧さに感心しているのかもしれない。作者は店に入ろうとしてか、通りがかりにか、そこに足を止めている少女の細いうなじが目に入った。少女の見えない表情を、うなじで読みとろうとしている。作家らしい好奇心だけでなく、やさしい心がそこに働いている。どこかしらドラマの一場面のようにも読めそうではないか。鮨と細いうなじの清潔感、それを見逃さない一瞬の小さな驚きがここにはある。江戸前の握り鮨は、鬱陶しい雨期や炎暑の真夏にはすがすがしい。高見順が残した俳句は少ないが、小説家らしい句。鮨の俳句と言えば、徳川夢声に「冷々と寿司の皿ある楽屋かな」、桂信子に「鮨食うて皿の残れる春の暮」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




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