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January 0412008

 雪の岳空を真青き玻璃とする

                           水原秋桜子

年の加藤楸邨先生をドライブで一の倉沢にお連れしたのは確か十四年前の晩秋だった。足腰が弱られていたために車を降りてからは車椅子。岩場を縫っての「吟行」になった。この前後の頃に何度先生をさまざまなところへお連れしたことだろう。「歩行的感動」という言葉を出して句作の機微を説明されたほど、実際にものに触れてつくることを旨とされていたので、外に出ることがかなわぬようになると、句が固定的な観念に頼り痩せてくることを避けようとされていたのだった。一の倉沢のてっぺんは雪を被っていたような気がする。覆いかぶさるように上空を囲った岩場の絶巓から木の葉がはらはらと落ちてきた。先生は句帖を開いて太字の鉛筆を持ち、ときおり何かを書き付けておられた。車椅子を押していた僕は上から覗き込んで手帖の中を見た。そこには上句として一の倉沢。行を変えて一の倉沢。次もまた。一の倉沢が三行並んでいた。この「一の倉沢」を、先生はその後推敲して句にされ発表されたような記憶があるが、どんな句だったか覚えていない。没後編まれた句集『望岳』には載っていない。秋桜子のこの句も谷川岳で詠まれた。おそらく一の倉沢だろう。ガラスのような青空から降ってきた木の葉を忘れられない。河出文庫『俳枕(東日本)』(1991)所載。(今井 聖)


January 1112008

 現身の暈顕れしくさめかな

                           真鍋呉夫

つしみのかさあらはれしくさめかなと読む。暈は、太陽や月の周辺に現れる淡い光の輪のこと。くしゃみをした瞬間、その人の体の周辺に暈が茫と出現した。くしゃみだからこそ、生きてここに在ることの不思議と有り難さと哀しみが滲む。六十年代のテレビ映画の「コンバット」は一話完結の戦争物として一世を風靡したが、その一話に、戦友の姿が曇って見えると必ずその人が戦死することに気づいた兵士の話があった。兵士は次第に自分の能力が怖くなる。ある日鏡に映った自分の姿が曇って見える。その日は前線から後方へ移動する日で、みなこの兵士を羨んだが、兵士は移動の途中地雷でジープごと吹っ飛ぶ。この話の「曇り」は仕掛けもオチもあるけれど、この句の暈は感覚が中心で、理屈で始末のつくオチがない。どこか生と死の深遠に触れている怖ろしさがある。くさめというおかしみを通して存在の深遠に触れる。こういうのを俳諧の本格というのだろう。『定本雪女』(1998)所収。(今井 聖)


January 1812008

 日のあたる硯の箱や冬の蠅

                           正岡子規

の句に日野草城の「日の当る紙屑籠や冬ごもり」を並べて「日のあたる」二句の比較を楽しんでいる。二句とも仰臥の位置からの視線であるところが共通点。二人とも長い病の末結核で世を去った。両者とも日常身辺の限られた範囲の中で、視覚的な物象に句材を得ている。二句の違いというか、それぞれの特徴として、僕は子規の「眼」の凝視の力と、草城のインテリジェンスを思う。子規が見出した「写生」という方法は、生きて在ることの実感を瞬間瞬間の「視覚」によって確認することが起点となっている。子規が詠んだ有名な鶏頭の句も糸瓜の句も、季題の本意や情趣がテーマではなく視覚の角度やそこに乗せる思いがテーマ。この句でも冬の蠅を凝視する子規の「眼」に子規自身の「生」が刻印されているような感じがする。何気ない枕もとの日のあたる硯箱が背景になっていることがさらに鬼気迫るほどのリアリティを見せている。一方、草城の句は、冬ごもり、書き物、反古、紙屑籠という一連の理詰めの連想が起点となっている。つまり草城は自己の病臥の状態から句を詠んでも季題の本意を忘れず、俳諧を意識し、フィクションを演出する。そこに「知」を強烈に働かせないではいられない。「新興俳句」の原動力となった所以である。『日本大歳時記』(1981・講談社)所載。(今井 聖)


January 2512008

 わが掌からはじまる黄河冬の梨

                           四ッ谷龍

解したり組み立てたり、言葉の要素である意味とイメージのジグゾーパズルを楽しめる作品。「掌」から手相はすぐ出る。手相の中心に走る生命線や運命線から、俯瞰した河の流れが浮かぶ。河から「黄河」が連想される。アマゾン川やインダス川でなくて黄河なのは三音の韻の問題が主である。「はじまる」で映像的シーンを重ねる手法が思われる。手相に接近したカメラはやがて滔滔たる黄河を映し出す。「冬」は「わが」とつながる。「冬」は内部世界の暗部を象徴する。「梨」は「黄河」とつながる。梨、水、流れ、河、黄河の連想つながりである。整理すると、「わが」は「冬」と、「黄河」は「掌」と、「梨」は「黄河」とそれぞれつながる。それらの関係を一度絶ってバラバラにして今度は別の組み合わせにしてみる。なぜか。意味を分断して視覚的なシーンを固定せず、イメージのふくらみをもたせるためである。一度つながった言葉は相手を引き離されて別の相手と組まされる。強引に別の相手と組まされた組み合わせは意外なイメージを形成する。その意外さが「視覚」を超えることを作者は意図している。そうやって一度バラバラにして「意外性」を意図したあと、うまくいかなければ、もう一度バラして現実の「写生」にもどす手もある。言葉はどうにでも組み立て可能だ。作品の成否は別にして。別冊俳句『平成俳句選集』(2007)所載。(今井 聖)


February 0122008

 白鳥にもろもろの朱閉ぢ込めし

                           正木ゆう子

はあけとも読むが、この句は赤と同義にとって、あかと読みたい。朱色は観念の色であって、同時に凝視の色である。白鳥をじっと見てごらん、かならず朱色が見えてくるからと言われれば確かにそんな気がしてくる。虚子の「白牡丹といふといへども紅ほのか」と趣が似ている。しかし、はっきり両者が異なる点がある。虚子の句は、白牡丹の中に自ずからなる紅を見ているのに対し、ゆう子の方は「閉ぢ込めし」と能動的に述べて、「私」が隠れた主語となっている点である。白鳥が抱く朱色は自分の朱色の投影であることをゆう子ははっきりと主張する。朱色とはもろもろの自分の過去や内面の象徴であると。イメージを広げ自分の思いを自在に詠むのがゆう子俳句の特徴だが、見える「もの」からまず入るという特徴もある。凝視の客観的描写から内面に跳ぶという順序をこの句もきちんと踏まえているのである。『セレクション俳人正木ゆう子集』(2004)所載。(今井 聖)


February 0822008

 雪の橋をヤマ去る一張羅の家族

                           野宮猛夫

宮猛夫。一九二三年北海道浜益村に八人兄弟の末っ子として生まれる。子供の頃は浜辺の昆布引きに加わり、尋常高等小学校卒業後、鰊船に乗る。鰊の不漁にともない、炭鉱に入る。炭鉱の落盤事故で死線をさまよい、脊椎を痛めたため川崎に出て、ダンプカーの運転に従事。俳句は、「青玄」、「寒雷」「道標」に拠り現在は「街」。一九五六年に「寒雷」に初投句で巻頭。そのときの句に「蛙けろけろ鉱夫ほら吹き三太の忌」「眉に闘志おうと五月の橋を来る」。これらは楸邨激賞の評を得た。生活の中から体ごと詩型にぶつけて作る態度である。労働のエネルギーはこの作家の場合は決してイデオロギーの主張にいかない。党派的なアジテーションや定番の宣伝画にはならない。原初のエネルギーで詩型が完結し昇華する。ヤマを去るときの家族の一張羅が切なくも美しい。上句の字余りがそのまま心情の屈折を映し出す。時代の真実も個人の真実もそこに刻印される。『地吹雪』(1959)所収。(今井 聖)


February 1522008

 春の朝日鋲の頭を跳び跳び来る

                           安藤しげる

九三一年神奈川県川崎市に生まれる。父は製鉄所勤務。六歳のとき母によって姉が苦界に売られると本人記述の年譜にある。十二歳のとき借金のため一家離散。翌年より旋盤見習工として働く。「社会性俳句」という呼称がある。主に第一次産業や、炭鉱、国鉄、工場労働などの従事者がみずからの現場から取材した俳句を指す。そこから社会批評に向ける眼差しを引き出してくる意味を込めてその名が用いられた。「社会性俳句」はしかし、高度成長経済の進展によって終焉する。ひとつの流行として幕が下ろされたかに見える。現場から直接瞬時に受け取るものを描くという方法は芭蕉以来の俳句の骨法であって、決して流行のスタイルで終わるものではないと僕は思う。現場から直接立ち上る息吹に、思想や政治性をまぶして「社会性」という言葉を当てはめ、絵に描いた餅のような汗と涙の労働と団結をでっち上げたのは、実際に現場の労働に従事したしげるたちではなく、現場労働を傍観しつつ流行のムードを演出したイデオロギー優先の「リベラリスト」や知的エリートの管理職たちである。彼らは流行を演出したあとバブル期に入るといちはやく「俳諧」に転向する。「社会性俳句」出身の「俳諧」俳人はごろごろいる。みんな俳壇的成功者である。鋲の頭を跳びながら来る春の朝日は傍観者では詠えない。この瞬間に存在の全体重をかけて、どっこい安藤しげるは生きている。『胸に東風』(2005)所収。(今井 聖)


February 2222008

 薄氷の吹かれて端の重なれる

                           深見けん二

氷が剥がれ、風に吹かれかすかに移動して下の薄氷に重なる。これぞ、真正、正調「写生」の感がある。俳句がもっともその形式の特性を生かせるはこういう描写だと思わせる。これだけのことを言って完結する、完結できるジャンルは他に皆無である。作者は選集の自選十句の中にこの句をあげ、作句信条に、虚子から学んだこととして季題発想を言い、「客観写生は、季題と心とが一つになるように対象を観察し、句を案ずることである」と書く。僕にとってのこの句の魅力の眼目は、季題の本意が生かされているところにあるのではなく、日常身辺にありながら誰もが見過ごしているところに行き届いたその「眼」の確かさにある。人は、一日に目にし、触れ、感じる無数の「瞬間」の中から、古い情緒に拠って既に色づけされた数カットにしか感動できない。他人の感動を追体験することによってしか充足せざるを得ないように「社会的」に作られているからだ。その縛りを超えて、まさに奇跡のようにこういう瞬間が得られる。アタマを使って作り上げる理詰や機智の把握とは次元の違う、自分の五感に直接訴える原初の認識と言ってもいい。季題以外から得られる「瞬間」の機微を機智と取るのは誤解。薄氷も椅子も机もネジもボルトも鼻くそも等しく僕らの生の瞬間を刻印する対象として眼の前に展開する。別冊俳句「平成秀句選集」(2007)所載。(今井 聖)


February 2922008

 灯点して妻現れず春の家

                           岩城久治

年ほど前、どこかの年鑑でこの句を最初眼にしたとき、尋常ならざる気配を感じたのだった。帰宅して暗い部屋に灯を点す。誰も現れない。現れるはずの、というより既に灯を点して待っているはずの妻がいないのだ。買い物など用事があって予定通りの不在なら妻現れずというだろうか。そして「春の家」の不思議さ。春という季題を用いる場合、それを「家」の形容に用いるのは、ふつうなら、特に伝統派なら、繊細さの欠けた用法とするところだ。季節感を持たない「家」に安直に「春」を重ねたと。しかも「春の家」はイメージとしては茫とした明るさを提示する。つまりこの句は何か変なのだ。日常を描いていながらこの叙述から湧き起こってくる違和感は何だろうと考えていくうち、この「妻」はひょっとして既にこちら側の世界にいないのではなかろうかという推測を抱くに至る。そんな感想を持ってしばらくして、作者が妻を亡くされた直後の作という事実をどこかで眼にした。思いはどこかで言葉に浸透し、形式と一緒になって言葉が持っている機能の限界を超えて鑑賞者に伝わる。どんなに言葉の機能を探り規定しても、そこからはみ出す「霊」のごときものがある。作者の名や作者の人生がわからなければ鑑賞できないのは俳句が芸術性において劣っている証拠だという「第二芸術」の問題提起が戦後あった。妻が死んだとも言わず、それを暗示する暗い内面を書き記すでもなく、それでもその深い悲しみが伝わる。これを形式の恩寵と言わずになんと言おう。桑原武夫さんにこの句を見せてみたい。『平成俳句選集』(1998)所収。(今井 聖)


March 0732008

 春昼の背後に誰か来て祈る

                           横山房子

から下に向かって書かれたものは上から読まれる。「春昼の背後に」と読み下していくと、そこにまず時間と場所の設定を思う。次に「誰か来て」。ここまでなら読み手の琴線を揺さぶるものはない。これは春昼という季題の本意を意識した上で背後に人の気配を感じる内容だろうと。それだけなら陳腐平凡だなあと予想するわけである。ところが最後の二文字で様相は一変する。「祈る」とあることで教会という空間が特定され「春昼の背後」が大きく包みこまれる。神社なら内容の静かさにそぐわないし、墓前なら「誰か」とは言わない。教会での静かな祈りのつぶやきが聞こえてくる。祈りの静謐の中での聴覚のリアル。「祈る」は空間のみならず行為も特定する。この二文字がこの句のテーマになるのである。叙述の最後の最後に来て作品が蘇る。逆転満塁ホームランのような句だ。縦書き表記の効用も思う。横書きだと左から右へ読んで行くが、横一列全体がなめらかに眼に入る。読み下して「祈る」に出会う衝撃力はやはり縦書きでこそ得られるものだ。『平成俳句選集』(1998)所収。(今井 聖)


March 1432008

 農地改革は暴政なりし蝶白し

                           齋藤美規

正十二年生まれ。昭和十七年から加藤楸邨に師事をした作者が、平成十九年の時点での自選十句の中にこの句を入れている。そのことに僕は作者の俳句に対する態度を感じないわけにはいかない。作者は新潟、糸魚川の地にあって「風土探究」を自己のテーマとして五十六年には現代俳句協会賞を受賞し、俳壇的な評価も確立している。「冬すみれ本流は押す力充ち」「一歩前へ出て雪山をまのあたり」「百年後の見知らぬ男わが田打つ」などの喧伝されている秀句も多い。その中のこの句である。一般的認識では小作解放という「美名」のもとに語られる事柄を、敢えて「暴政」と呼ぶ。敗戦直後占領軍によって為された地主解体による土地の解放政策を何ゆえ作者は否定するのだろうか。調べてみると解放という大義名分の影に、小作に「無償」で譲られた土地が農地として残存せず、宅地に転用され、そこで土地成金を生んだりした例もあるらしい。日本の農業政策の根幹に関わる疑問を、新潟在の作者は自己の問題として提起しているように思う。「風土」とは、田舎の自然を詠むことが中心ではなく、そこで営々と不変の日常を送る自己を肯定達観して詠むことでもなく、社会に眼を開くことを俳句になじまぬこととして切り捨てることでもない。まぎれもない「個」としてそこに在る自己の、憤りや問題意識を詠うこと。その態度こそが「風土」だと、自選十句の「自選」が主張している。『平成秀句選集』(2007)所収。(今井 聖)


March 2132008

 先生やいま春塵に巻かれつつ

                           岸本尚毅

読、文体が古雅。雅というよりも俗の方だから古俗ともいうべきか。近代俳句調と言ってもいい。その理由の最大のものは「先生や」の置き方にある。主格の「は」「が」に替わる「や」は子規、虚子の時代においては多く使用された。「や」「かな」「けり」には詠嘆などの格別の意味があるのかいなと思われるほどに、なんとはなく(安直に)あきれるほど多く使われた。そのために現代俳句では、(秋桜子以降を現代と呼ぶなら)切れ字が俳句の抹香臭さの元凶のひとつとされ、例えば山口誓子の句集『激浪』では所収の一二五四句の中に切れ字「や」はほとんど使われていない。戦後は、古典に眼を遣ると提唱した石田波郷などの影響で、切れ字使用に関しては俳句形式の特性として肯定的に捉える考え方が生まれ、その分、切れ字に関しては慎重な使い方が主流になった。「や」は、その前と後ろで切れなければいけないとの思い込みである。多義的な(言い換えればいいかげんな)「や」が姿を消し、それにともなって主格の「や」も今日ではほとんど見られない。作者はすでに古典になったこのいいかげんな「や」を用いることで俳句の古い文体を今日に生かそうとしている。内容は読んでの通り。この「先生」は作者の師波多野爽波であってもいいし、なくてもいい。「先生」は故人であってもいいし、現存する眼前の人でもいい。故人であれば春塵の中を昇天していくイメージ。(その場合は爽波は秋に逝かれたので対象にはならない)眼前のひとならば春塵の中を颯爽と去ってゆく師への思いである。念のために言うが、この句、一句一章の「や」である以外の可能性はまったくない。『平成秀句選集』(2007)所収。(今井 聖)


March 2832008

 入学児に鼻紙折りて持たせけり

                           杉田久女

の句、「折りて」が才能。言われてみると子どもに持たせるんだからそりゃあ折って渡すだろうと思うかも知れないが、俳句を作る段になれば言える表現ではない。努力では到達できない表現だろう。庶民の多くの階層に自己表現への道を拓いた虚子は女性には台所俳句と呼ばれた卑近な日常を詠むことを説いた。「もの」を写す「写生」ではなく、倫理観の方を優先させて良妻賢母の在り方を自己主張するように導いたのである。虚子がというより当時の社会がそういう「女」を求めたからだ。妻として母として自分が如何に健気に自分を殺して生きているか。当時の女流作品の多くはそんな世界が主流であった。入学児に鼻紙を持たせるのは母親としての愛情とあるべき配慮。ここまでが基準課題の合格点。ここからが才能である。久女は当時の男社会が要求する「女性らしさ」の定番を易々とクリアしてみせつつ、「折りて」に定番を超えた「自己」を噴出させる。講談社版『日本大歳時記』(1982)所載。(今井 聖)


April 0442008

 母校の屋根かの巣燕も育ちおらむ

                           寺山修司

らむの「お」は原句のまま。「小学校のオルガンの思い出」の前書がある。破調の独特の言い回しに覚えがあり、どこかで見た文体だと思ったら橋本多佳子の「雀の巣かの紅絲をまじへをらむ」に気づいた。かの、おらむがそのままの上に、雀の代りに燕を用いた。多佳子の句は昭和二十六年刊の『紅絲』所収。修司のこの句は二年後の二十八年。そもそも多佳子が句集の題にしたくらいの句であるから修司が知らないで偶然言い回しが似たということは考えがたい。修司、高校三年生の時の作品である。内容を比べてみると、多佳子の句は、結婚する男女は赤い糸で結ばれているという故事を踏まえ、切れてしまった赤い糸が今雀の巣藁の中に混じっているという発想。巣の中の赤い糸に見る即物の印象から一気に私小説のドラマに跳ぶ。修司の方はきわめて一般的な明解な思い。しかし、母校という言い方にしても、「かの」にしてもこの視点はすでに卒業後何年も経ってのものを演出している。十八歳にしてこの演出力はどうだ。典拠を模倣し、演出し、一般性をにらんで娯楽性を考える。寺山の芝居も映画もこのやり方で多くのファンを掴んだ。「だいだいまったく新しい表現なんてあるのかい」という寺山の声が聞こえてくるようだ。しかし、と僕はいいたいけれど。『寺山修司俳句全集』(1986)所収。(今井 聖)


April 1142008

 海棠の花くぐりゆく小径あり

                           長谷川櫂

代でも俳句が描く情趣の大方は芭蕉が開発した「わび、さび」の思想を負っている。そこには死生観、無常観が根底にある。そこに自らの俳句観を置く俳人は現世の諸々の様相を俳句で描くべき要件とは考えない。現実の空間や時間を「超えた」ところにひたすら眼を遣ることを自己のテーマたらむとするのである。その考え方の表れとして例えば「神社仏閣」や「花鳥諷詠」が出てくる。どう「超える」かの問題や、現実に関わらない「超え方」があるのかどうかは別にして、そういうふうに願って作られる作品があり、そういう作品に惹かれる読者が多いこともまた事実である。いわゆる文人俳句といわれるものや詩人がみずから作る俳句の多くもまたこの類である。自己表現における「私」と言葉とのぎりぎりの格闘に緊張を強いられてきた人は、俳句に「私」を離れた「諷詠」を求めたいのかもしれない。作者は生粋の「俳人」。世を捨てる「俳」の在り方に「普遍」を重ねてみている。句意は明瞭。『季別季語辞典』(2002)所載。(今井 聖)


April 1842008

 銀河系のとある酒場のヒヤシンス

                           橋 間石

のおかげでいろいろ乗り切ってこられたと大酒呑みだった父は酒への感謝をよく口にした。負け戦に駆り出されて爆弾の下を駆けずり回り、戦後は農地改革で家が崩壊し、いくつか職を変え、伴侶である僕の母は長患いで入院を繰り返し、馬鹿息子はいつも逆らって父を悩ました。酒が父のストレスのはけ口だった。俺が飲めなくなったらそんときは終わりだな。その言葉どおり飲めなくなってすぐお別れがきた。今現世の我らが飲んでいるところが銀河系の地球の日本のとある酒場。そういう意味ともうひとつ、夜空を見上げて銀河系の中に彼岸の人たちが集まる酒場を思ってみてもいい。どちらにしてもヒヤシンスなんか置いてあるんだからちょっと粋な酒場だ。僕などいつも飲む酒場はゴキブリや鼠が出る喧騒の安酒場。銀河系というより地獄の一丁目のような趣き。(作者の間石の間の正字は門構えの中に「月」)『季別季語辞典』(2002)所載。(今井 聖)


April 2542008

 雨季来りなむ斧一振りの再会

                           加藤郁乎

雨の趣きとは異なって「雨季」には日本的ではない語感がある。鉞(まさかり)というと金太郎が浮かぶが斧というとどういうわけかロシアとか東欧が浮かぶ。僕だけだろうか。だからこの句、全体からモダニズムが匂う。雨季が今来ているところであろうよ、が雨季来りなむ。斧一振りはフラッシュバックへの導入。斧で殺されたトロツキーや、シベリア抑留捕虜の伐採の労働が瞬時にイメージされては消える。「再会」は記憶の中の過去との再会。そこは雨季がまさに訪れようとしている。歴史の流れと自分の過去が共有する「時間」を遡るのだ。モダニズムへの憧憬と深い内省と。この句所収の句集『球体感覚』の刊行年、一九五九年とはそんな年ではなかったか。「雨季来りなむ」と「斧一振り」と「再会」はそれぞれ現実的意味としての連関をもたないが、全体としてひとつのイメージを提供する。雨季との再会や人物との再会と取る読みもあろうが、僕はそうは取らない。もちろんこの雨季は季語ではない。『球体感覚』(1959)所収。(今井 聖)


May 0252008

 桃つぼむ幼稚園まで附きそひし

                           室生犀星

ぼむには窄む(すぼむ)という意味と、まったく逆の蕾をつけるという意味の二つがあるが、この句の場合は後者だろう。人はどこまで記憶を遡ることができるか。僕は四歳のときに幼稚園で石段から転げ落ちて頭に怪我をしたのがもっとも遠い記憶。両親は共稼ぎだったため、朝家から三百メートルほどのところにある幼稚園に一人で通わされた。協調性がなかった僕は幼稚園がいやでいやでたまらず母に抱きついては通園をしぶった。家を出たところで僕にしがみつかれた母は、しかたなく、通りすがりの女子高生に同行を頼んだ。僕はほとんど毎日見もしらぬ女子高生に手をひかれて幼稚園に到着した。犀星が付き添ったのは子どもか孫か。泣いてしがみつかれたためか、何かの用向きがあったか。あの犀星の異相とも言える風貌を思い浮かべると幼稚園までの風景が微笑ましい。折りしも春たけなわ。『新日本大歳時記』(2000・講談社)所載。(今井 聖)


May 0952008

 生れ月につづく花季それも過ぐ

                           野沢節子

季は、はなどきとルビがある。一九九五年に七五歳で亡くなられる三年前の作。自分の生れた月が来て、ひとつ歳を取り、つづいて桜の季節が来てそれも過ぎて行く。無常迅速の思いか。実作者としての立場から言えば、「それも」の難しさを思う。こんな短い詩形の中で一度出した名詞をさらに指示してみせそこに生じる重複感を逆に効果に転ずる技術。晩春の空気の気だるさにこの重複表現がぴったり合う。森澄雄の「妻がゐて夜長を言へりさう思ふ」の「さう思ふ」も同様。こんな「高度」な技術はその作者だけのもの。誰かが、「それも過ぐ」や「さう思ふ」を使えば剽窃の謗りをまぬがれないだろう。野澤節子は三月二三日に生まれ、四月九日に逝去。没後編まれた句集『駿河蘭』の帯には「野澤節子は花に生れ花に死んだ」とある。『駿河蘭』(1996)所収。(今井 聖)


May 1652008

 玻璃くだる雨露病児へ蝌蚪型に

                           香西照雄

世辞にも形の良い句とは言えない。雨露で切れる。破調だがリズムはある。それにしても言葉がぎくしゃくと硬い。流麗な言葉の自律的な結びつきを嫌って、凝視への執着をそのまま丁寧に述べた感じだ。雨露が蝌蚪のかたちに見えるという比喩が中心。玻璃の内側に病気の子どもを閉じ込めて、外側を無数の雨滴が降りてくる。蝌蚪型は比喩だから季語ではないという見方もあろうが、蝌蚪の季節だからこその比喩だという見方もできよう。そう思えば季感はある。蝌蚪型という素朴で大胆な把握はまさに草田男譲り。口あたりの良い流麗な句にない魅力がある。形式のリズムのよろしさが内容より出しゃばると、一句は軽く俗な趣になる。その軽さを「俳諧」と見誤ってはいけない。定型もリズムも季語も「写生」という方法もみんな一から見直すように仕掛けられたこの句のような立ち姿にこそ「文学」が存するのではないか。「俳句とエッセイ」(1987年10月号)所載。(今井 聖)


May 2352008

 のみとりこ存在論を枕頭に

                           有馬朗人

取粉の記憶はかすかにある。丸い太鼓型の缶の真中をパフパフと指でへこませて粉を出す。蚤はそこら中にいた。犬からも猫からもぴょんぴょん跳ねるところがよく見えた。犬を洗うときは尻尾から洗っていってはいけない。水を逃れて頭の方に移動した蚤が最後は耳の中に入り込み犬は狂い死ぬ。かならず頭から洗うんだぞ。そうすれば蚤は尻尾からぴょんぴょんと逃げていくと父は言った。父は獣医だったので、この恐ろしい話を僕は信じ、洗う順序を取り違えないよう緊張して実行したが、ほんとうだったのだろうか。蚤取粉を傍らに「存在」について書を読み考えている。蚤というおぞましくも微小なる「存在」と存在論の、アイロニカルだがむしろ俗なオチのつくつながりよりも、アカデミズムの中に没頭している人間が蚤と格闘しているという生活の中の場面が面白い。西田幾多郎も湯川秀樹も蚤取粉を枕頭に置いてたんだろうな、きっと。『花神コレクション・有馬朗人』(2002)所収。(今井 聖)


May 3052008

 五月雨や上野の山も見あきたり

                           正岡子規

治三十四年、死の前年の作。子規は根岸の庵から雨に煙る緑の上野の山を毎日のように見ていた。病臥の子規にとって「見あきたり」は実感だろうが、人間は晩年になると現世のさまざまの風景に対してそんな感慨をもつようになるのであろうか。「見るべきほどのことは見つ」は壇ノ浦で自害する前の平知盛の言葉。「春を病み松の根つ子も見あきたり」は西東三鬼の絶句。三鬼の中にこの子規の句への思いがあったのかどうか。この世を去るときは知盛のように達観できるのが理想だが、なかなかそうはいかない。子規も三鬼も「見あきたり」といいながら「見る」ことへの執着が感じられる。思えば子規が発見した「写生」は西洋画がヒントになったというのが定説だが、この「見る」ということが「生きる」ことと同義になる子規の境涯が大きな動機となっていることは否定できない。生きることは見ること。見ることの中に自己の瞬時瞬時の生を実感することが「写生」であった。『日本の詩歌3・中公文庫』(1975)所載。(今井 聖)


June 0662008

 漁師等にかこまれて鱚買ひにけり

                           星野立子

取県の米子から境港に向かう途中の弓ヶ浜は砂浜の海岸で、初夏になると投げ釣りの釣り人が波打ち際に並ぶ。鱚、めごち、ハゼが主な釣果。朝と夕方がよく釣れる。浜辺まで家から五百メートルほどだったので、僕も登校前の早朝、よく釣りに行った。思いきり投げて、あとは海底をリールで引きずりながらあたりを待つ。鱚は上品な外見で魚体の白色に光の角度で虹の色が見える。この句、漁港の朝市だろうか。地元の漁師たちに囲まれて旅行者の女性が鱚を買っている。旅行者は新鮮な鱚に目を奪われているが、漁師たちはこの旅行者の方を物珍しそうに見ている。鱚釣りをしていた中学生の頃、「キス」という発音が恥ずかしくて言いにくかった。米子弁で「キス釣りに行かいや」と言うだけで赤面したりしてたんだな。馬鹿だね、中学生って。講談社版『日本大歳時記』(1981)所載。(今井 聖)


June 1362008

 ほととぎすすでに遺児めく二人子よ

                           石田波郷

日は6月11日、2日前の夜12時ごろ、ほととぎすの声を聞いた。ここは横浜市磯子区洋光台。山を削って造った新興の住宅地であり、付近はまだまだ緑が多い。夜中に何で鳥が鳴くんだろうと不思議に思って確認したのだった。鳥はしばらく鳴いていた。鳴き声を聞いて、歳時記にあった「テッペンカケタカ」を思い出した。間違いないと思った。僕は山陰の田舎育ちなので、ほととぎすもどこかで必ず聞いていると思うのだが、これと意識したことはない。ほととぎすを聞いて句に詠もうと思うと、他の鳥ではないこれぞまさにほととぎすだという句を詠みたくなる。声の特徴やら空間の季節感やらを素材にして。季題を句のテーマにするということはそういうことだ。その季題の「らしさ」が出るように努める。しかし、そこに「自分」が生きなければ、季題をうまく詠むゲームになってしまわないか。波郷のテーマは自己の境涯に向ける眼と二人子の哀れ。ホトトギスは空間を演出する重要な小道具としての役割。なんとしても夜空のあの声を詠もうと思っていた僕はこの句を思い出し、ホトトギスを聞いて感動している自分のことを詠もうと考えてみた。『惜命』(1950)所収。(今井 聖)


June 2062008

 蹴らるる氷拾ふは素手の舟津看護婦

                           岩田昌寿

常の一瞬が鋭く切り取られている。なんでもない風景を切り取って俳句にすることは難しい。切り取られた瞬間が偶然にも「詩」となるのはまさに奇跡である。舟津という看護婦の名は偶然得られたもの。氷が蹴られたものであることも、拾うのが素手であることも何でもないことだが、書かれてみるとそれぞれの動きも感覚も必然に思えてくる。先入観に支配された我々がこういう偶然を手にするのは意図しても難しい。場面に演出を加えてもその段階で「効果」を謀るからおよそ過去の堅実な「部品」や「組み合わせ」を用いることになる。こういう句を生み出せる方法は三つある。一つ目は自分が否応もなく異常な状態に置かれること。例えば病気末期の状況。二つ目は精神に異常をきたすこと。三つ目は先入観を捨て去って、初めて出会ったものを見るようにいつもの風景を見られること。藤の花の美しさを詠むのではなく、活けた藤の花房と畳との距離を詠んだ子規は一つ目のタイプ。病状が子規をして視覚に固執せしめた。この句の作者は二つ目のタイプ。多摩の精神病院で四一歳の生涯を終えている。両者を望まねば三つ目のタイプになるしかないが、そんな天才はいまだに知らない。「写生」とは恐ろしいほど難しい方法である。「俳句研究」(1977年8月号)所載。(今井 聖)


June 2762008

 初夏の街角に立つ鹿のごと

                           小檜山繁子

つのは自分。恐る恐る周囲を確かめるように、きらきら輝く初夏の光の中に立つ。街も鹿も清新な気に満ちている。昭和六年生れの小檜山さんは、結核療養中二十四歳で加藤楸邨に師事。重症だったので療養所句会には車椅子で出席した。青春期の大半を療養所で送ったひとが、街角に立つ「自分」をどれほど喜びと不安に包まれた存在として見ているかがうかがわれる。言葉の印象としては角と鹿が、かど、つの、鹿という連想でつながる。一句表記の立姿も鹿の象徴のようにすっきりしている。別冊俳句「平成俳句選集」(2007)所載。(今井 聖)




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