j句

January 0612008

 末の児に目くばせをして読む歌留多

                           吉田花宰相

めばだれしもが微笑んでしまうような、かわいらしい句です。季語は「歌留多」、もちろん新年です。昨今の、難解なマニュアルを読まなければはじめられないゲームとは違って、昔の遊びは、単純ではあるけれども、それだけにどんな年齢の子にも、その年齢にあった遊び方ができたように思います。歌留多を読んでいるのはお父さんでしょうか。日ごろは子供と時間を費やすことなど、ましてや一緒に遊ぶことなどめったにありません。子供たちにとっては、そのことだけでも、いつもの時間とは明確に区別された、特別な日であったのです。普通に遊べば当然のことながら、年齢の上の子が、次々と札を取ってゆきます。それでも泣きもせずに札に目を凝らしている末っ子に、一枚でも多く取らせてあげたいと思う気持ちは、親でなくとも十分にわかります。おそらく次の読み札は、末っ子のひざの前にある絵札だったのでしょう。「次はあれだよ」という目配せは、あたたかな、間違いのない親子間のコミュニケーションです。読み始めたとたんに札をとって得意げな顔をしている末っ子の顔。これ以上に大切なものは、めったにありません。『微苦笑俳句コレクション』(1994・実業之日本社)所載。(松下育男)


January 1312008

 初しぐれ鳩は胸より歩き出す

                           久留島春子

ぐれにまで「初」がついているのかと、新年に寄せる日本人の思いをあらためて感じ入ります。しぐれは漢字で書けば「時雨」。冬にぱらぱらと降る通り雨のことですが、この漢字を「じう」と読めば「ちょうどよい時に降る雨」という意味を持ちます。「時雨心地(しぐれごこち)」となれば、「涙の出そうな気持ち」になります。さて、句はそんな情けない気持ちとは関係なく、年があらたまって初めて空から落ちてきた冷たい雨を詠んでいます。空を見上げたまなざしを下へもどせば、乾いた地面に雨の模様がつき始めた中を、鳩がおもむろに歩き出しています。その鳩の姿を、見たままに描いています。「初」の文字と「歩き出す」が、新年のことのあらたまりを感じさせます。それも鳩のように大きく胸を張ってという表現が、雨にもかかわらず前に進んで行こうという気概を表しています。それでも句は、全体におちついていて静かな空気を感じさせます。小さな動物に目を凝らすという、そんな行為のやさしさが、おそらく観察の根底にあるからです。『観賞歳時記 冬』(1995・角川書店)所載。(松下育男)


January 2012008

 冬の雨下駄箱にある父の下駄

                           辻貨物船

関脇の、靴を収納する場所を今でも「下駄箱」というのだなと、この句を読みながら思いました。わたしが子供の頃には、それでも下駄が何足か下駄箱の中に納まっていました。けれど、マンションに「下駄箱」とは、どうにも名称がしっくりいきません。下駄というと、「鼻緒をすげる」というきれいな日本語を思い浮かべます。「すげる」というのは「挿げる」と書いて、「ほぞなどにはめ込む」という意味です。「ほぞ」という言葉も、なかなか美しくて好きです。さて掲句、たえまなく降り続く冬の雨から、玄関の引き戸を開けて、視線は薄暗い下駄箱に向かいます。その一番上の棚に、父親の大きな下駄がきちんと置かれています。寒い湿気が玄関の中に満ち、しっとりとした雰囲気を感じることができます。句は、父の下駄が下駄箱の中にあると、そこまでしか言っていません。しかしわたしにはこれが、「父の不在」を暗示しているように読めてしまいます。勝手な想像ですが、この家の主はもう亡くなっているのかもしれません。それでも日々履いていた下駄だけは、下駄箱のいつもの場所に置いておきたいという思いが込められているように感じるのです。この世の玄関に、その人がふっともどってきたときに、すぐに取り出せるように。『新選俳句歳時記』(1999・潮出版社)所載。(松下育男)


January 2712008

 書物の起源冬のてのひら閉じひらき

                           寺山修司

味はそれほどに複雑ではありません。てのひらを閉じたり開いたりしていたら、なんだかこれが、書物のできあがった発想の元だったんじゃないかと、感じたのです。では、てのひらの何が、書物に結びついたのでしょうか。大きさでしょうか、厚さでしょうか、あるいは視線を向けるその角度でしょうか。また、てのひらを開いたり閉じたりするたびに違う思いがわいてくる。そのことが、本のページを繰る動作につながったのでしょうか。それとも、てのひらに刻まれた皺のどこかが、知らない国の不思議な文字として、意味をもって見えたのでしょうか。「冬の」という語が示しているように、このてのひらは、寒さにかじかんで、ゆっくりと開かれたようです。その動きのゆるやかさが、思考の流れに似ていたのかもしれません。ともかく、書物はなぜできたのかという発想自体が、寺山修司らしい素直さと美しさに満ちています。そんな感傷的な思いにならべて、具体的な身体の動きを置くという行為の見事さに、わたしはころりと参ってしまうのです。『新選俳句歳時記』(1999・潮出版社)所載。(松下育男)


February 0322008

 糸電話ほどの小さな春を待つ

                           佐藤鬼房

のひらで囲いたくなるような句です。どこか、夏目漱石の「菫程な小さき人に生れたし」(増俳1997.04.05参照)という句を思い出させます。どちらも「小さい」という、か弱くも守りたくなるような形容詞に、「ほど」という語をつけています。この「ほど」が、その本来の意味を越えて、「小さい」ことをやさしく強調する役目をしています。さて、今年の冬はいつにもまして寒く感じましたが、早いもので明日は立春になります。ということで本日は節分。この日にはわたしはたいてい鬼の役割をしてきましたが、子供が大きくなってからはそれもなくなりました。「節」といい「分」といい、昔の人はよほど寒さに区切りをつけたかったものと思われます。掲句、「糸電話」を「小さい」ことの喩えに使うことに、異議をとなえる人もいるかもしれません。しかし、感覚としてわからないでもありません。糸のほそさ、たよりなさ、そこに発せられる声の小ささ、あるいは会話のなかみのけなげさ、そのようなものがない交ぜになって、こういった発想がでてきたのでしょう。「春を待つ」人が、冷たい手で糸電話を持つ。その糸の先は、おそらくもう春なのです。『角川俳句大歳時記 冬』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


February 1022008

 泪耳にはいりてゐたる朝寝かな

                           能村登四郎

語は朝寝。しかしこの朝寝は、朝寝、朝酒、朝湯と歌われているものとはだいぶ様子が違います。のんびりと朝寝をしていたのではなく、前の夜に眠れなかったことが、思いのほか目覚めを遅くしたものと思われます。眠れないほどの悩みとはいったい何だったのでしょうか。手がかりは泪しかありません。なぜ視覚をつかさどる目という器官が、同時に悲しみを表現するためにもあるのだろうと、不思議に思ったことがあります。その悲しみが限界を越えた所で、人はここから水をこぼします。眠れずに心を痛めたあげくの泪が、幾すじも頬をつたい、耳にたまってゆくのです。昼日中の泪なら、泣けば心が晴れるということもあるかもしれません。でも、この泪はそのまま翌日に持ち越しているようです。いつまでも寝ているわけにも行かず、起き上がり、身支度をした頃には、もちろん耳に入った泪はぬぐいさられています。それにしてもわたしは、この人がその日を、どのように乗り越えたのかを、どうしても想像してしまいます。目と、耳と、悲しみを二箇所にもためた人が、どのように悲しみを乗り越えたのかを。『現代俳句の世界』(1998・集英社)所載。(松下育男)


February 1722008

 春浅し空また月をそだてそめ

                           久保田万太郎

こをどうひっくり返しても、わたしにはこんな発想は出てこないなと思いながら、掲句を読みました。昔、鳥がいなかったら空のことはもっと分かりにくかっただろうという詩がありました。それを読んだときにもなるほどと、うならされましたが、この句にもかなり驚きました。日々大きくなって行く月の現象を、作者はそのままには放っておきません。これは何かが育てているからその嵩(かさ)を増しているのだと考えたのです。それも、よりにもよって空が育てたとは、なんとも大胆な発想です。「そだてそめ」といっています。まだ寒さの残る春の初めの空に、いったん欠けた月は、ちょうどその折り返し点にいるようです。だれかが手で触れれば、そのままそだちはじめる。「そだてそめ」、サ行の擦り寄ってくるような音がひらがなのまま、わたしたちに静かに入ってきます。多少強引な発想ではありますが、言われてみればなるほど美しく、不自然な感じがしません。句とは、なんと心に染み込むものかと、あらためて思いました。「春浅し」、今夜はこの句を思い出しながら、月を見てしまうんだろうな。『角川俳句大歳時記 春』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


February 2422008

 自転車に積む子落すな二月の陽

                           長田 蕗

の句が、どこかユーモラスに感じられるのは、子供を自転車に「乗せる」のではなく、「積む」と言っているからなのでしょう。まるで荷物を放り投げるように、子供を扱っています。さらに、「落すな」という命令言葉からも、それを発する人の心根の優しさを感じることができます。その優しさは、「二月の陽」の光のあたたかさにつながっていて、太陽の明るい光が、そのまま句全体を照らしているようです。わたくしごとですが、かつて、40近くになって、初めての子供を授かりました。ありがたくはありましたが、いきなりの双子の子育ては、家内と二人、想像以上に大変でした。順繰りに夜泣きを繰り返す時期も過ぎ、外出できるようになるまでは、ほとんど満足に睡眠をとったこともありませんでした。ですから、自転車の前後に籠を取り付けて、子供を乗せて外を走れるようになったときの爽快感は、今でも忘れることができません。それは単に、春風の気持ちよさだけではなく、子供がやっとここまで育ったぞという、安堵感をも伴ったものでした。「積む子落すな」を、単に自転車から落すなと読めばよいところを、子供たちの行く末の道をしっかりと見届けろよと深読みしてしまうのは、我ながらしかたがないかなと、思うのです。『鑑賞歳時記 春』(1995・角川書店)所載。(松下育男)


March 0232008

 三月は人の高さに歩み来る

                           榎本好宏

の外は依然として寒い風が吹きつのっています。長年横浜に住んでいますが、今年の冬は例年になく寒く感じられます。そんななか、休日の昼間、窓を閉めきった室内で春の句を拾い読みしていたら、こんな作品に出会いました。描かれている情景は分かりやすく、また親しみやすいものです。「三月」「人」「高さ」「歩む」と、扱われている単語はあくまでもありふれていて、特殊なイメージを喚起するようには作られていません。というのも、作者は感じたことを、ありふれた言葉で十分に表現できると確信したからなのです。インパクトの強い単語が、必ずしも表現の深さに繋がるものではないということを、この句を読んでいるとつくづく感じます。「人」の「高さ」という2語の結びつきだけでも、読み手にさまざまな感興をもたらしてくれます。読んでいるこちらも、その位置を高められたような気になります。等身の三月。一月二月には持てなかった親しみを、三月に感じています。衿をすぼめ、寒さに耐え、対決するようにすごしてきた月日の後に、肩をならべて一緒に時をともにすることのできる月が与えられたのです。その歩みはゆったりとしていて、後戻りをするようなこともありますが、両腕を広げ、確実に私たちの方へ歩み寄ってきてくれるのです。『四季の詞』(1988・角川書店)所載。(松下育男)


March 0932008

 いづかたも水行く途中春の暮

                           永田耕衣

の暮といえば、春の夕暮れを意味し、暮の春といえば、晩春のことを意味します。この句はですから、春の夕暮れ時を詠んでいます。「いづかたも」を「どちらの方向へも」と読むなら、その日の夕暮れ時に、ぬるんだ水が、どちらの方向へも広がるように流れて行くと、この句を解釈することができます。その流れの悠揚さが、自然のおおきないとなみにしたがっており、「途中」の一語が、世の無常を示しているようにも読み取れます。あるいは、「いづかたも」を「だれも」と解釈すれば、だれでもが、内面にたえまなく流れ去るものを持ち、すべてのおこないや出来事は、命の果てへ到達する途中のことでしかないのだと、読みとることも出来ます。どちらの解釈をとるにしても、どこか達観した意識で、物事を見つめているように感じられます。春は卒業、入学試験、人事異動と、大切な区切り目を越えなければならない時期です。見事にその区切りを越えられた人はともかく、そうでなかった人も、たくさんいるはずです。しかし、どんなに気の滅入る結果でも、所詮は流れ行く水のように、「途中」の出来事でしかないのだと、この句に肩をたたかれたように感じても、かまわないと思うのです。『俳句観賞450番勝負』(2007・文芸春秋) 所載。(松下育男)


March 1632008

 春昼の角を曲がれば探偵社

                           坂本宮尾

語の春昼は、「しゅんちゅう」と読みます。のんびりした春の昼間の意味ですから、「はるひる」と訓で読んだほうが、雰囲気が出るようにも感じます。しかし、日々の会話の中で、「しゅんちゅう」にしろ「はるひる」にしろ、この言葉を使っているのを聞いたことがありません。俳句独特の言葉なのでしょう。句の意味は明解です。書かれていることのほかに、隠された意味があるわけでもなさそうです。それでもこの句が気になったのは、「角を曲がる」という行為と、「探偵社」の組み合わせが、ノスタルジーを感じさせてくれるからです。先の見えない世界へ体をよじって進んで行く。「角」という言葉には、どこか謎めいていて、心を震わせるものがあります。そんな心の震えの後に、「探偵社」という古風な言い方の建物が出てきます。どことなし、怪しげな雰囲気が感じられます。古びたビルの一角に、昔の映画で見たような探偵が、めったに開くことのない扉を見ながら、ひたすら仕事の依頼を待っているのでしょうか。本来は抜きさしならない状況で、人の行為を密かに調べる職業ではありますが、この言葉にはどこか、ほっとするものを感じます。春の昼、のんびりと角を曲がったわたしは、どこかの探偵にそっとつけられている。と、罪のない想像をしながら、わたしは角を、すばやく曲がるのです。『現代俳句の世界』(1998・集英社) 所載。(松下育男)


March 2332008

 鉛筆を短くもちて春の風邪

                           岡田史乃

年は、我が家には受験生がいたため、家族全員風邪を引かないようにと、例年よりも注意をしていました。昨年末の予防接種はもちろん受け、手洗い、うがいを欠かしませんでした。一年間努力してきた結果が、父親の不摂生で台無しにしてしまってはと、気をつかいながら冬の日々をすごしていたのです。この句の、「春の風邪」という言葉を見てまず思ったのは、ですから、緊張から開放されて、ほっとしたところに風邪を引いてしまった人の姿でした。風邪による体のだるさと、陽気の暖かさによるだるさ、さらには緊張の解けた精神的なだるさも加わって、今日は家でゆっくりと休んでいるしかないのだというところなのでしょうか。それでも、どうしても今日中に連絡しなければならない事柄はあり、手紙を書き始めたのです。文字を書きながらも体はだるく、前へ前へと傾いて行きます。鉛筆の持ち方もいつもよりしっかりと、根元のところを持って、一文字一文字力を込めなければ、きちんとしたことが書けません。「春の風邪」と、「鉛筆を短く持つ」という動作の関係が、無理なく、ほどよい距離で繋がっています。『四季の詞』(1988・角川書店)所載。(松下育男)


March 3032008

 椿落ちてきのふの雨をこぼしけり

                           与謝蕪村

椿というと、どうしてもその散りかたを連想してしまいます。確かに増俳の季語検索で「椿」をみても、落ちたり、散ったりの句がいくつも見られます。これはむろん、句だけに限ったことではありません。若い頃に流行った歌の歌詞にも、「指が触れたら、ポツンと落ちてしまった。椿の花みたいに、恐らく観念したんだね。」というものがありました。椿の花の鮮やかな赤色と、女心の揺れ動きが、なるほどうまくつながっているものだと、いまさらながら感心します。ところで蕪村の掲句、これも花の落ちることを詠んでいますが、それだけではなく、他のものも一緒に落しています。ありふれたものの見方も、むしろそれをつきつめることによって、別の局面を持つことが出来るようです。目をひくのはもちろん「きのふ」の一語です。椿に降りかかった雨水が、花の上に貯えられたまま、一日は終えてしまいました。翌朝、水の重さに耐えられなくなったか、あるいはもともと花の散る時期だったのか、散って行くその周りに、水がもろともにこぼれて行く様子を詠んでいます。水の表面は朝日に、きらきらと輝いているのでしょうか。そのきらめきの中を、どうどうと落ちて行く椿。「きのふ」の一語が入ってくるだけで、句はひきしまり、全体が見事に整えられてゆきます。『四季の詞』(1988・角川書店)所載。(松下育男)


April 0642008

 相席に誘はれてゐる新社員

                           中神洋子

いぶん昔の、会社に入った頃のことを思い出しました。就職情報を丹念に調べ、会社の業績や将来性、あるいは社風や社長の理念まで細かく調べ上げても、実際に職場に行ってみなければ、そこがどんな場所なのかということはわかりません。慣れ親しんだ環境から、新しい雰囲気の場所へ移るには、それなりの緊張感が伴います。自分を受け入れてくれるのか。あるいは素直になじむことの出来る空気なのか。そんなことを考えているだけで、緊張感が増してきます。朝早くに初日の出社をし、人事部で大まかな説明を聞き、社員証の写真をとり、所属部署へ案内されても、まだどこかなじめない気持ちを持ち続けています。所属部署に連れて行かれ、一人一人挨拶してまわっても、直属の上司の名前を覚えるのが精一杯です。ほかの社員にはただ頭を下げて、自分の名前と、「よろしくお願いします」を繰り返すだけです。この句は、そんな日の昼食時を詠っているのでしょうか。社員食堂で見よう見まねで食事をトレイに載せ、どこに座ろうかと歩き出したところで、「ここ、どうぞ」とでも言われたのです。テーブルに向かいながら、なんとかここでやっていけるかなと、思いはじめたのでしょう。なんだか句を読んでいるこちらまで、ほっとします。『角川俳句大歳時記 春』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


April 1342008

 月日貝加齢といふ語美しき

                           三嶋隆英

ず、「月日貝」というものがあることに驚きます。むろんものの名ですから、人によってどのようにも名づけられることはあるでしょう。けれど、人の名や、動物の名、植物の名に、月日を持ってくるとは、思いがけないことでした。「月日貝」という名だけで、かなりのイメージを喚起しますから、この語を使って句を詠むことは、つまり季語に負けない句を詠むことは、容易なことではありません。歳時記の解説には次のような説明があります。「イタヤガイ科の二枚貝。(略)左殻は濃赤色、右殻は白色。これをそれぞれ日と月に見立ててこの名がある」。なるほど、視覚的に、色から月と日があてがわれたのでした。しかし、月と日があわさって、つながってしまうと、この語は突然、「時の流れ」を生み出してしまいます。掲句もその「月日」を歳月と解釈し、齢(よわい)を加えるという言い方を美しいと詠んでいます。考え方の流れとしては素直で、このままの心情を読み取ればよいのかと思います。老いることが何かを減じることではなく、加えられることであるという認識は、たしかに美しいものです。なお、歳時記の解説はさらに、次のように続いています。「食用になり、殻は貝細工になる。」そうか、わたしたちは月日を食べ、細工までしていたのです。『角川俳句大歳時記 春』(2006・角川書店) 所載。(松下育男)


April 2042008

 おそく帰るや歯磨きコップに子の土筆

                           和知喜八

語はもちろん土筆。そういえば、土筆坊(つくしんぼ)と、なれなれしく呼ぶこともあるのでした。食用にもなるのでしょうが、私の記憶に残っているのは、子供の頃に、多摩川の土手に行ってひたすらに摘んだこと、あるいは掌に幾本も握ったまま走りまわったことです。もちろん大人になってからは、土筆を摘んだことも、握りしめたこともありません。日々のいそがしい生活の中に、このようなものが割り込む余地など、まったくありません。掲句に描かれているのも、私のような、残業続きの勤め人の日常なのでしょう。「おそく帰るや」と、字を余らせてもその疲れを表現したかったようです。深夜、駅で延々と行列を作って、やっと乗れたタクシーを降り、家にたどり着けば家族はすでに眠りに入っています。起こさないようにそっと扉をしめて、洗面所に向かいます。家に帰ってきたとはいえ、頭の中は依然として仕事のことで興奮しているのです。顔を洗ってさっぱりした目の前に、歯磨き用のコップがあるのはいつも通りとしても、コップから何かが顔をのぞかせているようです。目を凝らせば、土筆のあたまがちょこんとコップの中から出ています。そうか、子供たちは昨日土筆を摘んでいたのかと、話を聞かずとも、その日の子供の様子がまざまざと想像できます。のんびりとした遊びの想像に包まれて、お父さんはその夜、おだやかな眠りにはいってゆけたのです。『山本健吉俳句読本 第二巻俳句観賞歳時記』(1993・角川書店) 所載。(松下育男)


April 2742008

 春の蛇口は「下向きばかりにあきました」

                           坪内稔典

うしてこの句に惹かれるのだろう、というところから考えはじめなければならないようです。文芸作品に接するとき、通常は、言葉で巧みに描かれた「意味内容」に、心を動かされるものです。しかし、掲句を読むかぎり物事はそう単純ではないようです。意味はわかりやすくできています。蛇口というのはたいてい下向きについているものですが、人か、あるいは蛇口自身が、ある日、そのことにもう飽きたといいだしたのです。たしかに、だれもなんとも思わないものを、このようにとり上げられれば、そうかそんな見方もあるのかという驚きは感じます。しかし、この句に惹かれる理由は、それだけではないようです。また、「春の」とあるように、のんびりとした雰囲気の中で、深刻なことは考えないで、水のこぼれている栓のゆるい蛇口でも眺めていようよという、心地のよいちからのぬけかたも感じます。しかし、それだけでもなさそうです。たぶん、俳句という、ここまでは言い切ってしまったけれども、ここから先はどんなふうに書きついでも台無しになる世界、そこにこそ、私は惹かれるのかなと、思うのです。『現代の俳句』(1993・講談社)所載。(松下育男)


May 0452008

 ことごとく箱空にして春惜しむ

                           川村智香子

日は立夏、もう夏です。ということで本日は、春を惜しむ句です。季語「春惜しむ」は過ぎゆく春を惜しむこと、と歳時記にその意味が説明されています。さらに「惜しむ」とは、「あるよきものが今に失われてしまうことを知りながらいとおしむこと」とあります。なかなかきれいな説明です。下手な詩よりも、物事の緻密な説明文のほうが、よほど心に入ってきます。掲句を読んでまず思ったのは、「この箱は、なんの箱だろう」という疑問でした。季節の変わり目でもあり、服を入れるための箱の中身を入れ替えてでもいるのかと思いました。あるいはこの箱は、人の中にしまわれた、さまざまな感情の小箱かとも思われます。でも、そんなことを詮索してゆくよりも、与えられた語を、そのままに受けとる方がよいのかなと思います。「箱を空にする」という行為の中で、空(から)は空(そら)を連想させ、心の空(うつ)ろさをも思いおこさせてくれます。その空ろさが、行くものを惜しむ心持につながってゆきます。また、「ことごとく」の一語が、数多くのものに対面している気持ちのあせりや激しさを感じさせ、行くものを見送る悲しみにもつながっているようです。句全体が、春を失って、空っぽになった人の姿を、美しく思い浮かべさせてくれます。『角川俳句大歳時記』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


May 1152008

 薄紙にひかりをもらす牡丹かな

                           急 候

田宵曲は『古句を観る』の中で、この句について次のように解説しています。「牡丹に「ひかり」という強い形容詞を用いたのは、この時代の句として注目に値するけれども、薄紙を隔てて「ひかりをもらす」などは頗る弱い言葉で、華麗なる牡丹の姿に適せぬ憾(うらみ)がないでもない。」なるほど、これだけ自信たっぷりに解説されると、そのようなものかといったんは納得させられます。ただ、軟弱な感性を持ったわたしなどには、むしろ「ひかりをもらす」と、わざわざひらがなで書かれたこのやわらかな動きに、ぐっときてしまうのです。薄紙を通した光を描くとは、江戸期の叙情もすでに、微細な感性に充分触れていたようです。華麗さで「花の王」とまで言われている牡丹であるからこそ、その隣に「薄さ」「弱さ」を置けば、いっそうその気品が際立つというものです。いえ、内に弱さを秘めていない華麗さなど、ありえないのではないかとも思えるのです。句中の「ひかり」が、句を読むものの顔を、うすく照らすようです。『古句を観る』(1984・岩波書店)所載。(松下育男)


May 1852008

 並木座を出てみる虹のうすれ際

                           能村登四郎

語は虹。どの季節にも見られる現象ですが、光、太陽、雨上がり、噴水などが似合う季節は、やはり夏なのでしょう。この句に惹かれたのは「虹のうすれ際」という、静かであざやかな描写よりもむしろ、「並木座」の一語のためでした。あくまでも個人的な読み方になってしまいますが、銀座にあったこの名画座に、わたしは若い頃、足しげく通ったものでした。特に大学生の頃には、キャンパスは時折バリケード封鎖され、休講も多く、ありあまる時間に少ないお金で過ごせる場所といったら、図書館と名画座しかありませんでした。一日中映画館の古い椅子に沈みこむように座って、どこか投げやりな気分に酔いながら、当時の映画をうっとりと見ていたものでした。「八月の濡れた砂」も「初恋地獄篇」も「旅の重さ」も、この映画館で見たのだと思います。最前列の席からは、足を伸ばせば舞台に届いてしまうような、小さな映画館でした。ある日には、映画の帰りに、階段を上がったところの事務室の中に、毛皮のコートを着た秋吉久美子の姿を見て、胸が震えたこともありました。わたしはたいてい夜まで映画を繰り返し見ていましたが、この句の人は、まだ陽のあるうちに並木座を出てきたようです。暗いところに慣らされた目がまぶしく見た銀座の空に、虹がかかっていたのです。虚構の世界が現実にさらされて少しずつ日常に戻って行く。その変化を虹のうすれ際に照らして読むことには、無理があるでしょうか。『角川 俳句大歳時記 夏』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


May 2552008

 朝顔やすこしの間にて美しき

                           椎本才麿

顔は秋の季語ですが、気分的には夏に咲く花という感じがします。思えばこの花はいつも、生活にごく近いところで咲いていました。子供の頃は、ほとんどの家がそうであったように、我が家もとても質素な生活をしていました。それでも小さな家と、小さな庭を持ち、庭には毎年夏になると、朝顔の蔓(つる)が背を伸ばしていたのでした。子供の目にも、朝に咲いている花は、その日一日の始まりのしるしのような気がしたものです。考えてみれば、「朝」という、できたての時の一部を名前にあてがわれているなんて、なんと贅沢なことかと思います。この句では、「朝」と、「すこしの間(ま)」が、時の流れの中できれいにつながっています。「朝顔の花一時(ひととき)」と、物事の衰えやすいことのたとえにも使われているように、句の発想自体はめずらしいものではありません。それでもこの句がすぐれていると感じるのは、「すこしの間」というものの言い方の素直さのためです。たしかに、少しの間だから儚(はかな)いのだし、儚さにはたいてい美しさが、伴うのです。『俳句の世界』(1995・講談社)所載。(松下育男)


June 0162008

 噴水に真水のひかり海の町

                           大串 章

つの視点を、この句から感じることができます。まずは首を持ち上げて、「見上げる」視点です。空へ向かって幾度も持ち上げられて行く噴水を、下から見上げています。おそらく公園の一角でしょう。歩いていたら突然目の前に水が現れる、ということ自体がわたしたちにはうれしい驚きです。それまでの時間がしっとりと湿ってくるような感じがするものです。その水を明るい空へ放り投げてしまおうと、初めて考えたのはいったい誰だったのでしょうか。もう一つの視点は、上空から町と、その向うに広がる海を「見下ろす」ものです。晴れ上がって、どこまでもすがすがしい空気に満ちた、清潔な町並みと、静かに打ち寄せる波が見えてきます。言うまでもなくこの句の魅力は、噴水が真水であることの発見にあります。そんなことは当たり前じゃないかという思いは、その後に海と対比されることによって、気持ちのよい納得に導かれるのです。理屈はどうあれ、透き通った二つの視点を与えられただけで、わたしは句に接するうれしさでいっぱいになるのです。『角川俳句大歳時記 夏』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


June 0862008

 足跡は一歩にひとつ作り雨

                           桑原三郎

り雨という、なんとも品のよい言葉に目がとまりました。歳時記の解説によりますと、「屋根などから水道水を雨のように庭に降らせて涼を作り出すこと」とあります。夏の盛りの日の照りつけている道を、暑さに耐えながら一歩一歩と歩いている人に、ふと、水しぶきが当たります。顔を上げてみれば、ある一軒の家の屋根からきらきらと冷たい水が降り注いでいる、そんな意味なのでしょうか。「足跡は一歩にひとつ」までは、なんでもない日常の中で、ひたむきに生きている人の姿を象徴しているようにも読めます。こつこつと生きてゆく日々には、特に何が起きるわけでもありません。そんな折、ちょっとした非日常の輝きに満ちた驚きが訪れることがある、それが「作り雨」によってあらわされているのではないのでしょうか。一歩にひとつという、当然のことをことさらに言うことで、日々の耐え忍ぶさまが巧みに表現されています。さらに、「作り雨」の「作る」が、「足跡」にもかかっているようにも見えますが、そこまで解釈を広げてしまうと、私にはもう手に負えません。ともあれ「作り雨」、美しい言葉です。『角川俳句大歳時記 夏』(2006・角川書店) 所載。(松下育男)


June 1562008

 御手打の夫婦なりしを更衣

                           与謝蕪村

士言葉についての話題を、しばしば聞くことがあります。本も出ているようです。別の世界のようでいて、でもまったく違ったものとも思えない。地続きではあるけれども、不思議な位置にある世界です。いつもの慣れきった日常を新鮮に見つめなおす契機になるようにと、いまさらながら光をあてられてしまった言葉なのでしょう。まさか、「おぬし」とか「せっしゃ」と日々の会話で使うわけにもいかないでしょうが、その志や行いは、江戸しぐさに限らず、日々の行動に取り入れることの出来るものもあります。句の、「御手打(おてうち)」も、今は使われることのなくなった武士社会の言葉です。本当だったら許されることのなかった夫婦、というのですから、自然に思い浮かぶのは密通の罪でしょうか。隠れて情を通じ合っていた男と女が、何らかの理由によって「御手打」を許され、夫婦となって隠れ住んでいるもののようです。それでもかまわないという思いで結ばれた二人の気持ちが、どれほどに烈しいものを含んでいようとも、季節は皆と同じようにめぐってきます。夏になれば更衣(ころもがえ)もするでしょう。句の前半に燃え上がったはげしい情が、更衣一語によって、いっきに鎮められています。『日本の四季 旬の一句』(2002・講談社)所載。(松下育男)


June 2262008

 退職の言葉少なし赤き薔薇

                           塚原 治

い頃は、人と接するのがひどく苦手でした。多くの人が集まるパーティーに出ることなど、当時の自分には想像もつかないことでした。けれど、勤め人を35年もしているうちに、気がつけばそんなことはなんでもなくなっていました。社会に出て働くということは、単に事務を執ることだけではなく、職場の人々の中に、違和感のない自分を作り上げる能力を獲得することでもあります。ですから、たいていの人は知らず知らずのうちに、人前で挨拶をしろといわれれば、それなりに出来るようになってしまうものです。しかし時には、何年勤めても、そういったことに慣れることのできない人がいます。この句を読んで感じたのは、もくもくと働いてきた人が、定年退職を前に、最後の挨拶を強いられている場面でした。その人にとっては、何十年間を働きあげることよりも、たった一度の人前での挨拶のほうが、苦痛であったのかもしれません。幾日も前から、その瞬間を考えては悩んでいたのです。言葉につまる当人を前に、周りを囲んでいる人たちも気が気ではないのです。言葉などどうでもいい、もうなにも言わなくてもいいからという思いでいっぱいなのです。はやく大きな拍手でたたえて、見事に咲き誇った薔薇を、熱く手渡したかったのです。「朝日俳壇」(「朝日新聞」2008年6月16日付)所載。(松下育男)


June 2962008

 居るはづの妻消えてゐし昼寝覚め

                           平石保夫

通の読み方をするなら、この句はほほえましい光景として受け止められるのでしょう。連日のつらい通勤から、やっとたどり着いた休日なのに、勤め人というのはなぜか朝早く目が覚めてしまうのです。そのために昼過ぎにはもう、朝の元気は消えうせ、眠くて仕方がありません。腕枕をしながらテレビでも見ようものなら、5分とたたずに眠ってしまいます。いつもなら、「こんなところで邪魔ねえ」と、早々に起こされるところが、なぜか今日はぐっすり眠らせてもらえたようです。なんだか頭の芯まですっきりするほどに眠ってしまったのです。窓の外を見れば、すでに夕暮れが訪れてきています。部屋の電気も消え、まわりには何の物音もしません。どうしてだれもいないのだろうと、だるい体で考えをめぐらせているのです。読みようによっては、「消えて」の一語が、ちょっとした恐怖感をかもし出しています。でも奥さんは単に、夕飯の買い物にでも出かけたか、あるいは何かの用事があって外出しているだけなのでしょう。さびしさとか、取り残されているとか、そんな感じの入り込む余地のない、おだやかで、堅実な日々のしあわせを、この句から感じ取れます。『鑑賞歳時記 夏』(1995・角川書店)所載。(松下育男)




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