今日からパソコンの前に戻ってきた方も多いでしょう。本年もどうかよろしく。(哲




2008ソスN1ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 0712008

 売春や鶏卵にある掌の温み

                           鈴木しづ子

戦後まもなくの句。この「鶏卵」は、客にもらったものだろう。身体を張った仕事と引き換えに、当時は貴重で高価だったたまごを得た。まだ客の掌の温みの残ったたまごを見つめていると、胸中に湧いてくるのは限りない虚脱感と自己憐憫の哀感だ。フィクションかもしれないし、事実かもしれない。しかし、そんなことはどうでもよいことだ。ここに現れているのは、戦後の飢餓期にひとりで生きなければななかった若い女性の、一つの典型的な心象風景だからである。もはや幻の俳人と言われて久しい作者については多くの人が言及してきたが、私の知るかぎり、最も信頼できそうなのは『風のささやき しづ子絶唱』(2004・河出書房新社)を書いた江宮隆之の言説である。この本の短い紹介文を書いたことがあるので、転載しておく。「その作品は『情痴俳句』とハヤされ、その人は『娼婦俳人』と好奇の目を向けられた。敗戦直後の俳壇に彗星のように現われ、たちまち姿を消した俳人・鈴木しづ子。本書は、いまなお居所はおろか生死も不明の『幻の俳人』の軌跡を追ったノンフィクション・ノベルである。『実石榴のかつと割れたる情痴かな』『夏みかん酸っぱしいまさら純潔など』。敗戦でいかに旧来の価値観が排されたにせよ、それはまだ理念としてなのであり、若い女性が性を詠むなどは不謹慎極まると受け取る風潮が支配的だった。スキャンダラスな興味で彼女を迎えた読者にも、無理もないところはあるだろう。しかし、彼女への下卑た評価はあまりにもひどかった。著者の関心は、これら無責任な流言から彼女を解き放ち、等身大のしづ子を描き、その句の真の意味と魅力を確認することに向けられている。そのために、彼女の親族や知人に会うなど、十数年に及ぶ歳月が費やされた。彼女の俳句にそそいだ愛情と才能を、スキャンダルの渦に埋没させたままにはしたくなかったからだ。戦時中は町工場に勤め、そこで俳句の手ほどきを受け、名前を知られてからは米兵相手のダンサーとなり、のちに基地のタイピストとして働いた。離婚歴もあり、これらの経歴を表面的につきまぜた『しづ子伝説』は現在でも生きている。著者は彼女の出生時から筆を起こし、実にていねいに『伝説』の数多の虚偽から彼女を救いだしてゆく。同時に折々の作句動機に触れることで、しづ子作品を再評価しているあたりも圧巻だ。これから読む人のために、本書の結末は書かないでおくが、才能豊かで意志の強い若い女性が時代や世間の波に翻弄されてゆく姿はいたましい。いかに彼女が『明星に思ひ返へせどまがふなし』と胸を張ろうともである」。掲句は結城昌治『俳句つれづれ草』所載。(清水哲男)


January 0612008

 末の児に目くばせをして読む歌留多

                           吉田花宰相

めばだれしもが微笑んでしまうような、かわいらしい句です。季語は「歌留多」、もちろん新年です。昨今の、難解なマニュアルを読まなければはじめられないゲームとは違って、昔の遊びは、単純ではあるけれども、それだけにどんな年齢の子にも、その年齢にあった遊び方ができたように思います。歌留多を読んでいるのはお父さんでしょうか。日ごろは子供と時間を費やすことなど、ましてや一緒に遊ぶことなどめったにありません。子供たちにとっては、そのことだけでも、いつもの時間とは明確に区別された、特別な日であったのです。普通に遊べば当然のことながら、年齢の上の子が、次々と札を取ってゆきます。それでも泣きもせずに札に目を凝らしている末っ子に、一枚でも多く取らせてあげたいと思う気持ちは、親でなくとも十分にわかります。おそらく次の読み札は、末っ子のひざの前にある絵札だったのでしょう。「次はあれだよ」という目配せは、あたたかな、間違いのない親子間のコミュニケーションです。読み始めたとたんに札をとって得意げな顔をしている末っ子の顔。これ以上に大切なものは、めったにありません。『微苦笑俳句コレクション』(1994・実業之日本社)所載。(松下育男)


January 0512008

 鳥総松月夜重ねて失せにけり

                           風間啓二

けて、平成二十年も早五日、二日ほどで松もとれる。鳥総松(とぶさまつ)は、門松をとった後に、その松の梢を折って差しておくもの。鳥総はもともと、木こりが木を切った時、その一枝を切り株に立て、山の神を祀ったことをいい、鳥総松はこれにならった新年の習慣である。我が家の近隣の住宅街では、本格的な門松を立てる家はまずなく、たいていは松飾りを門扉に括りつけている。我が家の門柱は煉瓦の間に、頭が直径1.5センチほどの輪になったねじ釘が埋めこんであり、そこに松飾りを挿して括る。そして松がとれると、枝を折り、鳥総松とするが、近所では見かけない。十五日まで挿してあるので、小学生が登下校の道すがら、さわるともなくさわっていったりする。この句の場合は、本格的な門松の跡の地面に立てた鳥総松だろう。松の梢は、正月の華やぎの余韻のように、やや頼りない姿で立っている。そして一週間ほど経った朝、片づけようと表を見ると、なくなってしまっているのだ。風にさらわれたのか、犬がくわえていってしまったのか、夜々の月に、傾いだ一枝がひいていた影を思い出しつつ、「今年」が本格的に始動する。『俳句大歳時記』(1965・角川書店)所載。(今井肖子)




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