2008N117句(前日までの二句を含む)

January 1712008

 国の名は大白鳥と答えけり

                           対馬康子

鳥が各地の湖に飛来し越冬するシーズン、遠い灰色の空からみるみる大きくなる白鳥の一団が湖に着水する様はさぞ見事なことだろう。「大白鳥」という答えはどこから来たのだろうか。白鳥が旅立った国を問われたのか、質問を受けた人の出身地を問われていたのか、考えれば考えるほどその謎は深い。質問がよくわからなくてとんちんかんな返事をしてしまったとも考えられる。もしそうだとしてもこの答えはしごくロマンチックだ。「国の名」と「大白鳥」と関係なさそうなものが直結することで、夜空の白鳥座を連想したり、飛来する白鳥の故郷であるシベリアやロシアの大地を思ったりする。渡り鳥である白鳥は「ここまではロシア」「ここは中国」と、国を区別して飛んでくるわけではない。白鳥にとっては海を越えるとはいえ、ひとつづきの土地であり、北から南の湖へ渡るという本能に従っているだけである。ヒトが普段の生活で意識している国名というものがどれだけ便宜上のものであり、地球的規模からいえば無用なものであるという事実がかえってこの答えから感じられる。日常よくみられる受け答えの勘違い、その呼吸に合わせて広がりのある世界を描き出した句だと思う。『対馬康子集』(2003)所収。(三宅やよい)


January 1612008

 絵の家に寒燈二ついや三つ

                           岡井 隆

語には「春燈」や「秋燈」があって「冬燈=寒燈」もある。寒さのなかの燈火が冴え冴えとともっている。絵に描かれた寒々とした一軒家にともる燈が、二つ三つかすかに見えているというのだろう。「絵の家」は「絵を飾ってある家」とは解釈したくないし、それでは無理がある。日本画でも洋画でもいいだろうけれど、隆は家がぽつりと描かれた絵を前にしている。その家の二つほどの窓にあかりがともっている。いや、よく見ると三つである――そんな絵が見えてくる。この句では「いや三つ」の下五がうまくきいている。いきなり「二つ三つ」と詠んでは陳腐に流れてしまう。歌人・岡井隆は詩も俳句も作る。先ほど手もとに届いた「現代詩手帖」1月号に隆は密度の高い散文詩を書いている。掲出句は1994年1月に、三橋敏雄、藤田湘子、小澤實、大木あまり他との御岳渓谷の宿での句会で投句されたうちの一句で、三人が選んだ。その席では「かわいーなー」とか「絵の家が見えてこない」などといった感想が出された。場所が場所であるだけに、川合玉堂の絵だったのかもしれない。(すぐそばに川合玉堂美術館がある。)このままだと、確かに「絵の家」がはっきり見えてこないかもしれない。しかし、七七を付けて短歌にしたら、「絵の家」はくっきり彫りこまれるのではあるまいか。そんな勝手な想像は、この際許されないのだろうが。加藤楸邨の句「子がかへり一寒燈の座が満ちぬ」を想う。小林恭二『俳句という愉しみ』(1995)所載。(八木忠栄)


January 1512008

 ごみ箱を洗って干してあっ風花

                           薮ノ内君代

五の「あっ風花」は作者のひとりごと。家庭の主婦はまず一日の天気を把握してから本日の家事一切のメニューを組み立てる。わたしのようなぐうたら者でさえ、輝く朝日を浴びたときには、布団も干したい、シーツも洗いたい、ところで猫を洗ったのは一体いつ!?などと考える。まるで人間の身体のどこかにソーラーパネルのようなものが埋め込まれていて、太陽の光にどん欲に反応しているかのようだ。掲句の日和はいたって上々。いつものメニューをこなしたあと、「たまにはごみ箱でも洗おうかしら」と思うくらいのお天気だったに違いない。大物を洗って、とっておきの日向に干して、そしてようやく人心地となったとき、青空から降るプレゼントのような風花に気がつく。雲ひとつない空からきらきらと風花が舞う不思議は、遥か遠くに降った雪が風に乗って届くのだという。風花に気づいた彼女は、ソーラーパネルを全開にして、空からの便りを読み取るのだろう。「ヤマノムコウハ雪デスヨ」。それじゃ、熱い紅茶でも入れてひと休みでもしましょうか。いそいそとパネルをたたんで、あたたかいリビングへと入っていく。〈さくらさくらただ立ち止まってみるさくら〉〈クローバー大人になって核家族〉『風のなぎさ』(2007)所収。(土肥あき子)




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