大寒。東京の降雪予報は外れたが、ちらつきそうな空模様ではある。午前5時。(哲




2008ソスN1ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 2112008

 何もなし机上大寒来てゐたり

                           斎藤梅子

寒は「太陽が黄経三百度の点を通過するとき」と、歳時記に書いてある。……と言われても、よくわかりませんが(笑)。要するに、寒さの絶頂期ということだ。この机は居間や書斎のそれではないだろう。たとえば客間に据えてある黒檀か何かの机である。昔、母方の祖母の実家に厄介になっていたことがあるが、その家には玄関近くに大きな客間があった。ふだんは使われていない部屋だから、なんだか一年中寒々とした様子があった。たまに入ることがあると、真ん中に置かれている大きな机の上にはむろん何も置かれておらず、夏場でもひんやりとした感じだったことを覚えている。作者はそうした部屋に、たまたま大寒の日に入ったのだ。それでなくとも寒いのに、火の気のないがらんとした部屋の机の上には何もなく、いよいよ寒さが身に沁みて感じられたのだった。いや、何もないのではなくて、なんと「大寒が来ていた」と書かれているのは、フィクションというよりもほとんど実感からの即吟だろう。咄嗟に、そう思えてしまったのである。私はあまり擬人法を好きではないけれど、こうした咄嗟のインプレッションを述べるような場合には、ぴったり来る場合もあることはある。『現代俳句歳時記・冬』(学習研究社・2004)所載。(清水哲男)


January 2012008

 冬の雨下駄箱にある父の下駄

                           辻貨物船

関脇の、靴を収納する場所を今でも「下駄箱」というのだなと、この句を読みながら思いました。わたしが子供の頃には、それでも下駄が何足か下駄箱の中に納まっていました。けれど、マンションに「下駄箱」とは、どうにも名称がしっくりいきません。下駄というと、「鼻緒をすげる」というきれいな日本語を思い浮かべます。「すげる」というのは「挿げる」と書いて、「ほぞなどにはめ込む」という意味です。「ほぞ」という言葉も、なかなか美しくて好きです。さて掲句、たえまなく降り続く冬の雨から、玄関の引き戸を開けて、視線は薄暗い下駄箱に向かいます。その一番上の棚に、父親の大きな下駄がきちんと置かれています。寒い湿気が玄関の中に満ち、しっとりとした雰囲気を感じることができます。句は、父の下駄が下駄箱の中にあると、そこまでしか言っていません。しかしわたしにはこれが、「父の不在」を暗示しているように読めてしまいます。勝手な想像ですが、この家の主はもう亡くなっているのかもしれません。それでも日々履いていた下駄だけは、下駄箱のいつもの場所に置いておきたいという思いが込められているように感じるのです。この世の玄関に、その人がふっともどってきたときに、すぐに取り出せるように。『新選俳句歳時記』(1999・潮出版社)所載。(松下育男)


January 1912008

 ヴァンゴッホ冷たき耳を截りにけり

                           相生垣瓜人

ッホが自らの耳を傷つけたのは1888年、クリスマスもほど近い12月23日。太陽をもとめて移り住んだ南仏の町アルルで、当時同居し、制作活動を共にしていたゴーギャンとの激しい諍いの果てであったという。春の水に映る跳ね橋、星月夜のカフェ、真夏の太陽そのものの輝きを放つひまわり。ゴッホは、アルルに滞在した四百日余りで、油絵、素描合わせて三百枚以上を描いたといわれている。掲句、実際は耳たぶの先をきり落としたのだというから、切る、ではなく、裁つ、きり離す、の意のある、截る、なのだろう。比較的いつもひんやりしている耳たぶだが、寒さがつのる冬には、ことさらその冷たさが際だつ。作者は、そんな感覚を失ってちぎれそうな自分の耳たぶに触れ、ふとゴッホに思いをはせたのだろうか。右手にカミソリを持ったゴッホが、左手で思わず掴んだ自らの耳たぶ。それは、やわらかくたよりなく、まるで自分自身の弱さの象徴のように思えたのかもしれない。冷たし、にある悲しみは、熱い血となって、その傷口から流れ出たことだろう。この後、ゴーギャンはタヒチに移り住み、ゴッホは1890年、三十七年の生涯を自らの手で閉じたのだった。『新日本大歳時記』(1999・講談社)所載。(今井肖子)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます