東京に、またまた雪の予報。一昨日は空振りだったが、今日はどうかしらん。(哲




2008ソスN1ソスソス23ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 2312008

 荒縄で己が棺負ふ吹雪かな

                           真鍋呉夫

句は穏かに楽しみたい、という人にとって掲出句は顔をそむけたくなるかもしれない。花鳥風詠などとはほど遠い世界。「荒縄」「棺」「吹雪」――句会などで、これだけ重いものが十七文字に畳みこまれていると、厳しく指摘されるだろうと思われる。私などはだからこそ魅かれる。私は雪国育ちだが、このような光景を見たことはない。けれども荒れ狂う吹雪のなかでは、おのれがおのれの棺を背負う姿が、夢か現のようにさまよい出てきても、なんら不思議ではない。吹雪というものは尋常ではない。人が生きるという生涯は、おのれの棺を背負って吹雪のなかを一歩一歩進むがごとし、という意味合いも読みとることができるけれど、それでは箴言めいておもしろくない。おのれがおのれの棺を背負っている。いや、じつはおのれの棺がおのれを抱きすくめている、そんなふうに逆転して考えることも可能である。生きることの《業》と呼ぶこともできよう。両者を括っているのは、ここはやはり荒縄でなくてはならない。呉夫の代表句に「雪女見しより瘧(おこり)おさまらず」がある。「雪女」も「雪女郎」も季語にある。しかし、それは幻想世界のものとして片づけてしまえば、それまでのものでしかない。「己が棺負ふ」も同様に言ってしまっては、それまでであろう。容赦しない雪が、吹雪が、「雪女」をも「おのれの棺負うおのれの姿」をも、夢現の狭間に出現させる、そんな力を感じさせる句である。掲出句にならんで「棺負うたままで尿(しと)する吹雪かな」の一句もある。『定本雪女』(1998)所収。(八木忠栄)


January 2212008

 いきいきと雪の雫の竹箒

                           菊田一平

年の東京は積もるような雪はまだ降っていないが、油断していると慣れない雪に往生することになる。門までの踏み石や、家の前のわずかな通り道だけでも、降り積もり固く凍りつかない前に雪を払っておくことは、なかなかの大仕事だ。ひと仕事が済んで、下げられた竹箒から働く人が流す汗のようにぽたぽたと雫がしたたり落ちている。「いきいきと」の形容を命ないものに結びつけるとき、過剰な主観に辟易することも多いが、竹箒にはついさきほどまで握られていた持ち主の体温がありありと残っているように感じられるためか、無理なく受け入れることができる。箒は利き腕や使い方によって、微妙な具合に癖もつくものだ。こうなると箒という道具は単なる掃除用具ではなく、ごく個人的な、気に入りの万年筆のペン先などに感じる、減り具合まで愛おしむことができる特別なもの、自分の分身のように思えてくる。ところで、「竹箒」で検索すると上位に表示される「天才バカボン」で登場するレレレのおじさんだが、彼が電気店の社長であり、妻は既に他界、五つ子が五組で25人の独立した子供がいるという克明な背景に思わず仰天したことも今回の竹箒検索のおまけである。〈なやらひの鬼の寝てゐる控への間〉〈仏蘭西に行きたし鳥の巣を仰ぎ〉『百物語』(2007)所収。(土肥あき子)


January 2112008

 何もなし机上大寒来てゐたり

                           斎藤梅子

寒は「太陽が黄経三百度の点を通過するとき」と、歳時記に書いてある。……と言われても、よくわかりませんが(笑)。要するに、寒さの絶頂期ということだ。この机は居間や書斎のそれではないだろう。たとえば客間に据えてある黒檀か何かの机である。昔、母方の祖母の実家に厄介になっていたことがあるが、その家には玄関近くに大きな客間があった。ふだんは使われていない部屋だから、なんだか一年中寒々とした様子があった。たまに入ることがあると、真ん中に置かれている大きな机の上にはむろん何も置かれておらず、夏場でもひんやりとした感じだったことを覚えている。作者はそうした部屋に、たまたま大寒の日に入ったのだ。それでなくとも寒いのに、火の気のないがらんとした部屋の机の上には何もなく、いよいよ寒さが身に沁みて感じられたのだった。いや、何もないのではなくて、なんと「大寒が来ていた」と書かれているのは、フィクションというよりもほとんど実感からの即吟だろう。咄嗟に、そう思えてしまったのである。私はあまり擬人法を好きではないけれど、こうした咄嗟のインプレッションを述べるような場合には、ぴったり来る場合もあることはある。『現代俳句歳時記・冬』(学習研究社・2004)所載。(清水哲男)




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