lbJ句

January 2512008

 わが掌からはじまる黄河冬の梨

                           四ッ谷龍

解したり組み立てたり、言葉の要素である意味とイメージのジグゾーパズルを楽しめる作品。「掌」から手相はすぐ出る。手相の中心に走る生命線や運命線から、俯瞰した河の流れが浮かぶ。河から「黄河」が連想される。アマゾン川やインダス川でなくて黄河なのは三音の韻の問題が主である。「はじまる」で映像的シーンを重ねる手法が思われる。手相に接近したカメラはやがて滔滔たる黄河を映し出す。「冬」は「わが」とつながる。「冬」は内部世界の暗部を象徴する。「梨」は「黄河」とつながる。梨、水、流れ、河、黄河の連想つながりである。整理すると、「わが」は「冬」と、「黄河」は「掌」と、「梨」は「黄河」とそれぞれつながる。それらの関係を一度絶ってバラバラにして今度は別の組み合わせにしてみる。なぜか。意味を分断して視覚的なシーンを固定せず、イメージのふくらみをもたせるためである。一度つながった言葉は相手を引き離されて別の相手と組まされる。強引に別の相手と組まされた組み合わせは意外なイメージを形成する。その意外さが「視覚」を超えることを作者は意図している。そうやって一度バラバラにして「意外性」を意図したあと、うまくいかなければ、もう一度バラして現実の「写生」にもどす手もある。言葉はどうにでも組み立て可能だ。作品の成否は別にして。別冊俳句『平成俳句選集』(2007)所載。(今井 聖)


December 23122010

 鬱という闇に星撒く手のあらば

                           四ッ谷龍

ら命を断つ人は10数年連続で年間3万人を超えるという。朝夕の通勤途上、人身事故での電車の遅延は日常の一部となり、その慣れがおのれの感受性を摩滅させてゆくようで恐ろしい。子供からおとなの世界にまで蔓延する「うつ」は正体不明の「もののけ」のようなもので、その閉塞感が暗雲のごとく現代社会全体を覆っている。と、宗教学者の山折哲雄がどこかに書いていた。掲句の「鬱」も行きどころをなくして淀み、人を不安に陥れてゆく闇。つなぐ手を失ったまま個々に切り離された生き難い世の中に「星撒く手」という後半部の願いが眩しく感じられる。まことに生きる希望を撒いてゆくそんな手があるならばどれだけ救われるだろう。闇に閉ざされた人を救うのは人の結びつき以外にはなく、手を差し伸べる優しさ以外ない。今ほどその煌めきが恋しい時代はないのではないか。句にこめられた切実な思いが心に響く。『大いなる項目』(2010)所収。(三宅やよい)




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