喪服姿の一団が通り過ぎ、線香の香りが残った。ああ、また誰かが死んだんだ。(哲




2008ソスN1ソスソス25ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 2512008

 わが掌からはじまる黄河冬の梨

                           四ッ谷龍

解したり組み立てたり、言葉の要素である意味とイメージのジグゾーパズルを楽しめる作品。「掌」から手相はすぐ出る。手相の中心に走る生命線や運命線から、俯瞰した河の流れが浮かぶ。河から「黄河」が連想される。アマゾン川やインダス川でなくて黄河なのは三音の韻の問題が主である。「はじまる」で映像的シーンを重ねる手法が思われる。手相に接近したカメラはやがて滔滔たる黄河を映し出す。「冬」は「わが」とつながる。「冬」は内部世界の暗部を象徴する。「梨」は「黄河」とつながる。梨、水、流れ、河、黄河の連想つながりである。整理すると、「わが」は「冬」と、「黄河」は「掌」と、「梨」は「黄河」とそれぞれつながる。それらの関係を一度絶ってバラバラにして今度は別の組み合わせにしてみる。なぜか。意味を分断して視覚的なシーンを固定せず、イメージのふくらみをもたせるためである。一度つながった言葉は相手を引き離されて別の相手と組まされる。強引に別の相手と組まされた組み合わせは意外なイメージを形成する。その意外さが「視覚」を超えることを作者は意図している。そうやって一度バラバラにして「意外性」を意図したあと、うまくいかなければ、もう一度バラして現実の「写生」にもどす手もある。言葉はどうにでも組み立て可能だ。作品の成否は別にして。別冊俳句『平成俳句選集』(2007)所載。(今井 聖)


January 2412008

 寒月や猫の夜会の港町

                           大屋達治

の句の舞台はフェリーや貨物船の停泊する大きな港ではなく、海沿いの道を車で走っているとき現れたかと思うとたちまち行過ぎてしまう小さな漁師町がふさわしい。金魚玉のような大きな電球を賑やかに吊り下げたイカ釣り漁船がごたごた停泊していて、波止場にたむろする猫たちがいる。彼らは家から出さぬように可愛がられた上品な飼い猫ではなく、打ち捨てられた魚の頭や贓物を海鳥と争って食べるふてぶてしい面構えのドラ猫が似合いだ。すばしっこくてずる賢くて、油断のならない眼を光らせた猫たちが互いの縄張りを侵さない距離をおいて身構える。寒月が冴えわたる夜、そんな猫たちがトタンの屋根の上に、船着場のトロ箱のそばに、黒い影を落としている。互いにそっぽを向いて黙って座っているのか、それとも朔太郎の「猫」に出てくる黒猫のように『おわあ、こんばんは』『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』と鳴き交わしているのか。どちらにしても三々五々集まってくる猫たちの頭上には寒月が白い光を放っている。「夜会」というちょっと気取った言葉が反語的に響いて、港町の猫たちの野趣をかえって際立たせるように思える。『寛海』(1999)所収。(三宅やよい)


January 2312008

 荒縄で己が棺負ふ吹雪かな

                           真鍋呉夫

句は穏かに楽しみたい、という人にとって掲出句は顔をそむけたくなるかもしれない。花鳥風詠などとはほど遠い世界。「荒縄」「棺」「吹雪」――句会などで、これだけ重いものが十七文字に畳みこまれていると、厳しく指摘されるだろうと思われる。私などはだからこそ魅かれる。私は雪国育ちだが、このような光景を見たことはない。けれども荒れ狂う吹雪のなかでは、おのれがおのれの棺を背負う姿が、夢か現のようにさまよい出てきても、なんら不思議ではない。吹雪というものは尋常ではない。人が生きるという生涯は、おのれの棺を背負って吹雪のなかを一歩一歩進むがごとし、という意味合いも読みとることができるけれど、それでは箴言めいておもしろくない。おのれがおのれの棺を背負っている。いや、じつはおのれの棺がおのれを抱きすくめている、そんなふうに逆転して考えることも可能である。生きることの《業》と呼ぶこともできよう。両者を括っているのは、ここはやはり荒縄でなくてはならない。呉夫の代表句に「雪女見しより瘧(おこり)おさまらず」がある。「雪女」も「雪女郎」も季語にある。しかし、それは幻想世界のものとして片づけてしまえば、それまでのものでしかない。「己が棺負ふ」も同様に言ってしまっては、それまでであろう。容赦しない雪が、吹雪が、「雪女」をも「おのれの棺負うおのれの姿」をも、夢現の狭間に出現させる、そんな力を感じさせる句である。掲出句にならんで「棺負うたままで尿(しと)する吹雪かな」の一句もある。『定本雪女』(1998)所収。(八木忠栄)




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