朝は寒さで目が覚めます。でも日脚は確実に伸びてますね。もう少しの辛抱だ。(哲




2008ソスN1ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 2712008

 書物の起源冬のてのひら閉じひらき

                           寺山修司

味はそれほどに複雑ではありません。てのひらを閉じたり開いたりしていたら、なんだかこれが、書物のできあがった発想の元だったんじゃないかと、感じたのです。では、てのひらの何が、書物に結びついたのでしょうか。大きさでしょうか、厚さでしょうか、あるいは視線を向けるその角度でしょうか。また、てのひらを開いたり閉じたりするたびに違う思いがわいてくる。そのことが、本のページを繰る動作につながったのでしょうか。それとも、てのひらに刻まれた皺のどこかが、知らない国の不思議な文字として、意味をもって見えたのでしょうか。「冬の」という語が示しているように、このてのひらは、寒さにかじかんで、ゆっくりと開かれたようです。その動きのゆるやかさが、思考の流れに似ていたのかもしれません。ともかく、書物はなぜできたのかという発想自体が、寺山修司らしい素直さと美しさに満ちています。そんな感傷的な思いにならべて、具体的な身体の動きを置くという行為の見事さに、わたしはころりと参ってしまうのです。『新選俳句歳時記』(1999・潮出版社)所載。(松下育男)


January 2612008

 雪片のつれ立ちてくる深空かな

                           高野素十

週、火曜日の夜。冷え冷えとした夜道で、深い藍色の空に白々と冴える寒満月を仰ぎながら、これは予報どおり雪になるかもしれない、と思った。翌朝五時に窓を開けると、予想に反していつもの景色。少しがっかりして窓を閉めようとすると、ふわと何かが落ちてきた。あ、と思って見ていると、ひとつ、またひとつ、分厚く鈍い灰色の雲のかけらが零れるように、雪が落ち始めたのだった。すこし大きめの雪のひとひらひとひらが、ベランダに、お隣の瓦屋根に、ゆっくり着地しては消えていく。それをぼんやり眺めながら、「雪片」という言葉と、この句を思い出した。その後、東京にしては雪らしい雪となったが、都心では積もるというほどでもなく、霙に変わっていった。長く新潟にいた作者であり、この句、雪国のイメージと、つれ立ちて、の言葉に、雪がたくさん降っているような気がしていたが、違うのかもしれない。雨とは違って、その一片ずつの動きが見える雪。降り始めたばかりの雪は、降る、というより確かに、いっせいにおりてくる、という感じだ。やがて、すべてのものを沈黙の中に覆いつくす遙かな雪雲を見上げ、長い冬が始まったことを実感しているのだろうか。『雪片』(1952)所収。(今井肖子)


January 2512008

 わが掌からはじまる黄河冬の梨

                           四ッ谷龍

解したり組み立てたり、言葉の要素である意味とイメージのジグゾーパズルを楽しめる作品。「掌」から手相はすぐ出る。手相の中心に走る生命線や運命線から、俯瞰した河の流れが浮かぶ。河から「黄河」が連想される。アマゾン川やインダス川でなくて黄河なのは三音の韻の問題が主である。「はじまる」で映像的シーンを重ねる手法が思われる。手相に接近したカメラはやがて滔滔たる黄河を映し出す。「冬」は「わが」とつながる。「冬」は内部世界の暗部を象徴する。「梨」は「黄河」とつながる。梨、水、流れ、河、黄河の連想つながりである。整理すると、「わが」は「冬」と、「黄河」は「掌」と、「梨」は「黄河」とそれぞれつながる。それらの関係を一度絶ってバラバラにして今度は別の組み合わせにしてみる。なぜか。意味を分断して視覚的なシーンを固定せず、イメージのふくらみをもたせるためである。一度つながった言葉は相手を引き離されて別の相手と組まされる。強引に別の相手と組まされた組み合わせは意外なイメージを形成する。その意外さが「視覚」を超えることを作者は意図している。そうやって一度バラバラにして「意外性」を意図したあと、うまくいかなければ、もう一度バラして現実の「写生」にもどす手もある。言葉はどうにでも組み立て可能だ。作品の成否は別にして。別冊俳句『平成俳句選集』(2007)所載。(今井 聖)




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