高田馬場の食堂で「ギョーザ、安いよー」と宣伝している。これって逆効果だな。(哲




2008ソスN2ソスソス2ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 0222008

 春近し時計の下に眠るかな

                           細見綾子

日は節分、そして春が立つ。立つ、とは、忽然と現れる、という意味合いらしいが、季節の変わり目に、たしかにぴったりとした表現だなと、あらためて思う。ここしばらく寒い日が続いた東京でも、日差の匂いに、小さいけれど確かな芽吹きに、春が近いことを感じてほっとすることが間々あった。春待つ、春隣、春近し、は、冬の終わりの言葉だけれど、早春の春めくよりも、強く春を感じさせる。この句の作者は夜中に目覚めて、冷えた闇の中にしばらく沈んでいたのだろう。すると、柱時計が鳴る、一つか二つ。少し湿った春近い闇へ、時計の音の響きもゆるやかにとけてゆく。そしてその余韻に誘われるように、また眠りに落ちていったのだろう。先日、とある古い洋館を訪ねたが、そこには暖炉や揺り椅子、オルガンといった、今はあまり見かけなくなったものが、ひっそりと置かれていた。そのオルガンの、黒光りした蓋の木目にふれた時、ふとその蓋の中に春が隠れているような気がした。そっと開けてみようか、でもまだ開けてはいけないのかもしれない。その日の、きんとした冬晴の空を思い出しながら、時計の下に眠っているのは春なのかもしれない、などと思ったのだった。『図説俳句大歳時記』(1965・角川書店)所載。(今井肖子)


February 0122008

 白鳥にもろもろの朱閉ぢ込めし

                           正木ゆう子

はあけとも読むが、この句は赤と同義にとって、あかと読みたい。朱色は観念の色であって、同時に凝視の色である。白鳥をじっと見てごらん、かならず朱色が見えてくるからと言われれば確かにそんな気がしてくる。虚子の「白牡丹といふといへども紅ほのか」と趣が似ている。しかし、はっきり両者が異なる点がある。虚子の句は、白牡丹の中に自ずからなる紅を見ているのに対し、ゆう子の方は「閉ぢ込めし」と能動的に述べて、「私」が隠れた主語となっている点である。白鳥が抱く朱色は自分の朱色の投影であることをゆう子ははっきりと主張する。朱色とはもろもろの自分の過去や内面の象徴であると。イメージを広げ自分の思いを自在に詠むのがゆう子俳句の特徴だが、見える「もの」からまず入るという特徴もある。凝視の客観的描写から内面に跳ぶという順序をこの句もきちんと踏まえているのである。『セレクション俳人正木ゆう子集』(2004)所載。(今井 聖)


January 3112008

 山々をながめて親を手放す日

                           佐藤みさ子

きてゆく限り人間は一人。日々「家族」に囲まれて孤独を紛らわせていても、いつか親は子と別れ、子は老いた親を見送る日が来る。「手放す日」とは親との永遠の別れの日なのか、親を他所へ送り出す日なのか。いずれにせよ子供を独立させるのとは違うやるせなさが漂う。「山々をながめて」という何気ない行為が親を手放すという尋常ならざる出来事とつながっていることで日常に隠されている恐ろしさ、さびしさを際立たせる。俳句の季語のように共通普遍なイメージを喚起させる言葉の力学を用いない川柳は、普段の言葉で日常の深い裂け目を書いてみせる形式である。「味方ではないが家族が二、三人」「何ももう産まれぬ家に寝静まる」など、シニカルな視点で現代の家族の距離感や空白感が描かれている。親族の肩書きを持っていても心が離れれば近くにいて遠慮がないだけに致命的な戦いになってしまうこともある。ただならぬ関係のまま形だけ持続している家族だってあるだろう。いま、この世の中で家族とはどういう存在なのか。自らの身を時代の鏡にうつしだして語られる言葉は人が本来有している淋しさを感じさせるとともに私たちが身を置く人間関係の痛い部分に直に触れてくるようだ。『呼びにゆく』(2007)所収。(三宅やよい)




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