風邪は快方に向かっているような気がします。大事をとって本日は欠勤の予定。(哲




2008ソスN2ソスソス4ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 0422008

 書を校す朱筆春立つ思あり

                           柴田宵曲

春。と言っても、まだ寒い日がつづく。東京は、昨日の雪でまだ真っ白。立春の本意は「春の『気』が立つ」ということだから、気候的に春が訪れるというのではなく、とくに現代ではむしろ心理的な要因としての意味合いが濃い。活版時代の編集者の句だ。立春の句は自然や外界に目を向けた句が多いなかで、室内での仕事の「気」を詠んでいて、それだけでも珍しいと言えるだろう。実際、校正は砂を噛むような地道な仕事だ。私が編集者になりたてのころに、ベテランの校正マンから教わったのは「校正の時に原稿を読んではいけない。その原稿に何が書いてあるのかわからないところまで文字をたどることに徹しないと、校正は完璧にはできない」ということだった。作者もまたそのように文字を追っているのだろうが、今日から暦の上では春だと思うと、同じ朱筆を入れるのにもどこかこれまでとは違った「気」が乗ってくると言うのである。折しも今週からは「俳句界」の校正が忙しくなってくる。赤ペンを握りながら、たぶんこの句を思い出すのだろう。原稿を読んでは駄目だ。その言葉といっしょに。「合本俳句歳時記・第三版」(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


February 0322008

 糸電話ほどの小さな春を待つ

                           佐藤鬼房

のひらで囲いたくなるような句です。どこか、夏目漱石の「菫程な小さき人に生れたし」(増俳1997.04.05参照)という句を思い出させます。どちらも「小さい」という、か弱くも守りたくなるような形容詞に、「ほど」という語をつけています。この「ほど」が、その本来の意味を越えて、「小さい」ことをやさしく強調する役目をしています。さて、今年の冬はいつにもまして寒く感じましたが、早いもので明日は立春になります。ということで本日は節分。この日にはわたしはたいてい鬼の役割をしてきましたが、子供が大きくなってからはそれもなくなりました。「節」といい「分」といい、昔の人はよほど寒さに区切りをつけたかったものと思われます。掲句、「糸電話」を「小さい」ことの喩えに使うことに、異議をとなえる人もいるかもしれません。しかし、感覚としてわからないでもありません。糸のほそさ、たよりなさ、そこに発せられる声の小ささ、あるいは会話のなかみのけなげさ、そのようなものがない交ぜになって、こういった発想がでてきたのでしょう。「春を待つ」人が、冷たい手で糸電話を持つ。その糸の先は、おそらくもう春なのです。『角川俳句大歳時記 冬』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


February 0222008

 春近し時計の下に眠るかな

                           細見綾子

日は節分、そして春が立つ。立つ、とは、忽然と現れる、という意味合いらしいが、季節の変わり目に、たしかにぴったりとした表現だなと、あらためて思う。ここしばらく寒い日が続いた東京でも、日差の匂いに、小さいけれど確かな芽吹きに、春が近いことを感じてほっとすることが間々あった。春待つ、春隣、春近し、は、冬の終わりの言葉だけれど、早春の春めくよりも、強く春を感じさせる。この句の作者は夜中に目覚めて、冷えた闇の中にしばらく沈んでいたのだろう。すると、柱時計が鳴る、一つか二つ。少し湿った春近い闇へ、時計の音の響きもゆるやかにとけてゆく。そしてその余韻に誘われるように、また眠りに落ちていったのだろう。先日、とある古い洋館を訪ねたが、そこには暖炉や揺り椅子、オルガンといった、今はあまり見かけなくなったものが、ひっそりと置かれていた。そのオルガンの、黒光りした蓋の木目にふれた時、ふとその蓋の中に春が隠れているような気がした。そっと開けてみようか、でもまだ開けてはいけないのかもしれない。その日の、きんとした冬晴の空を思い出しながら、時計の下に眠っているのは春なのかもしれない、などと思ったのだった。『図説俳句大歳時記』(1965・角川書店)所載。(今井肖子)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます