郵便局とコンビニが合体。たしかドイツではそうなってる。どんな品揃えかな。(哲




2008ソスN2ソスソス13ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 1322008

 春雨や人の言葉に嘘多き

                           吉岡 実

岡実のよく知られた句である。人の言葉に嘘が多いということは、今さら改めて言うまでもなく、その通りでございます。この句は「春雨」を配した、ただそれだけのことで一句がすっぱりと立ちあがった。「春雨」と「嘘多き」とが呼応して血がかよいはじめた。そこに短詩型ならではの不思議がある。昨今は「偽」などという文字に象徴されるような安っぽい世相になってしまったけれど、さて、「偽」と「嘘」は微妙にちがう。「偽」は陰湿で悪質である。「嘘」にもピンからキリまでいろいろあるけれども、どこかしらカラリとしていて、それほど悪質とは感じられないのではないか。どこかしら許される余地がありそうだ。「偽」のほうは容赦しがたい。世のなかも人も、嘘を完全に追放してしまったところで、さてキレイゴトで済む、というものではあるまい。そう言えば、世間には「嘘も方便」というしたたかで便利な言い方もある。掲出句はやわらかさのある「春雨」をもってきたことで、全体にユーモラスなニュアンスさえ加わり、俳味も生まれている。どことなく気持ちがいい。ここは「春風」や「春光」では乾き過ぎてしまってふさわしくない。人の言葉の嘘が、ソフトな春雨によってやんわりとつつまれた。文学も文芸も虚の世界であり、虚も嘘もない一見きれいな世界などむしろ気持ちが悪いし、味気ないということ。吉岡実が戦前に「奴草」として124句を収めた、その冒頭の句である。陽子夫人が「昭和13年から15年初めにかけて書かれたと思われる」と記している。『赤鴉』(2002)所収。(八木忠栄)


February 1222008

 翼なき鳥にも似たる椿かな

                           マブソン青眼

句の「翼なき鳥」という痛ましい姿に、デュマ・フィスの椿姫を重ねる読者は私だけではないだろう。『椿姫』は、社交界で「椿姫」とうたわれた美しい娼婦マルグリットと青年アルマンの悲恋の物語であるが、その名のゆえんは、ドレスの胸元に月の25日は白い椿、あと5日間を赤い椿を付けていたということからだった。この艶やかな描写に今でもはっと息をのむ。日本から西洋に渡った椿は、寒い季節でもつややかな葉や花を鑑賞することができることから「東洋のバラ」と呼ばれ、社交界ではこぞって椿の切り花を手にしていたといわれる。情熱の花として愛されているヨーロッパの椿に引きかえ、日本では美しくもあるが花ごと落ちることで不吉な側面も持っており、掲句が持つ印象は更に陰翳を濃くする。椿の樹下はまるで寿命の尽きた鳥たちの墓場でもあるように。〈鯉幟おろして雲の重みかな〉〈ああ地球から見た空は青かった〉『渡り鳥日記』(2008)所収。(土肥あき子)


February 1122008

 春の雪ふるふる最終授業かな

                           巻 良夫

校三年の最後の「授業」だろう。三月のはじめには卒業式があるので、最終授業は二月の中旬から下旬のはじめくらいか。最終授業を受ける気持ちは、もとより生徒それぞれに違うのだが、ただ共通の感慨としては、やはり今後はもう二度とみんなでこんなふうにして一緒に勉強をすることはないという惜別のそれだろう。この授業が好きか嫌いかなどは問題外であり、誰もがやがて否応なく訪れてくる別れの時を意識して、平素よりも神妙な顔つきになっている。折りから、外は春の雪だ。「ふるふる」と言うくらいだから、かなり激しくぼたん雪が降っている。そしてこの激しい降りが、教室内のみんなの心情をいっそう高ぶらせる。みんながセンチメンタルな気分に沈んでゆく。それは一種心地よい哀感なのでもあり、また暗黙のうちに連帯感を高める効果も生むのである。かくして後年には甘酸っぱい思い出となるのであろう最後の授業は、表面的には実に淡々と、いつもと同じように終わりに近づいていくのだった。現代俳句協会編『現代俳句歳時記・春』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)




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