風邪が誤算で原稿書きに追いまくられる毎日。ああ、日曜くらいは休みたいな。(哲




2008ソスN2ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 1722008

 春浅し空また月をそだてそめ

                           久保田万太郎

こをどうひっくり返しても、わたしにはこんな発想は出てこないなと思いながら、掲句を読みました。昔、鳥がいなかったら空のことはもっと分かりにくかっただろうという詩がありました。それを読んだときにもなるほどと、うならされましたが、この句にもかなり驚きました。日々大きくなって行く月の現象を、作者はそのままには放っておきません。これは何かが育てているからその嵩(かさ)を増しているのだと考えたのです。それも、よりにもよって空が育てたとは、なんとも大胆な発想です。「そだてそめ」といっています。まだ寒さの残る春の初めの空に、いったん欠けた月は、ちょうどその折り返し点にいるようです。だれかが手で触れれば、そのままそだちはじめる。「そだてそめ」、サ行の擦り寄ってくるような音がひらがなのまま、わたしたちに静かに入ってきます。多少強引な発想ではありますが、言われてみればなるほど美しく、不自然な感じがしません。句とは、なんと心に染み込むものかと、あらためて思いました。「春浅し」、今夜はこの句を思い出しながら、月を見てしまうんだろうな。『角川俳句大歳時記 春』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


February 1622008

 椿の夜あたまが邪魔でならぬかな

                           鳴戸奈菜

椿の花の時期は長いが、盛りは二月半ばから三月。花弁を散らしつつ、咲きながら散りながら冬を過ごす山茶花とは異なり、ぽたっと花ごと落ちるので、落椿という言葉もある。木偏に春は国字というが、あまり春の花という印象が強くない気がするのは、その深緑の葉の硬質な暗さや、春風を感じさせることのない落ち方のせいだろうか。それにしても掲句、あたまが邪魔なのだという。ひらがなの、あたま、は、理性、知性、思慮分別。もっと広く、本能以外のものすべてであるかもしれない。ものみな胎動し始める早春の闇に引きこまれるように、本能のおもむくままでありたい自分と、そんな一瞬にも、椿の一花が落ちる音をふと聞き分けるほどの冷静さで自分を見つめる自分。ならぬかな、にこめられた感情の強さは、同時に悲しみの強さともいえるだろう。一度お目にかかった折の、理知的で穏やかで優しい印象の笑顔と、「写生とは文字通り、生を写すこと」という言葉を思い出している。『鳴戸奈菜句集』(2005・ふらんす堂)所収。(今井肖子)


February 1522008

 春の朝日鋲の頭を跳び跳び来る

                           安藤しげる

九三一年神奈川県川崎市に生まれる。父は製鉄所勤務。六歳のとき母によって姉が苦界に売られると本人記述の年譜にある。十二歳のとき借金のため一家離散。翌年より旋盤見習工として働く。「社会性俳句」という呼称がある。主に第一次産業や、炭鉱、国鉄、工場労働などの従事者がみずからの現場から取材した俳句を指す。そこから社会批評に向ける眼差しを引き出してくる意味を込めてその名が用いられた。「社会性俳句」はしかし、高度成長経済の進展によって終焉する。ひとつの流行として幕が下ろされたかに見える。現場から直接瞬時に受け取るものを描くという方法は芭蕉以来の俳句の骨法であって、決して流行のスタイルで終わるものではないと僕は思う。現場から直接立ち上る息吹に、思想や政治性をまぶして「社会性」という言葉を当てはめ、絵に描いた餅のような汗と涙の労働と団結をでっち上げたのは、実際に現場の労働に従事したしげるたちではなく、現場労働を傍観しつつ流行のムードを演出したイデオロギー優先の「リベラリスト」や知的エリートの管理職たちである。彼らは流行を演出したあとバブル期に入るといちはやく「俳諧」に転向する。「社会性俳句」出身の「俳諧」俳人はごろごろいる。みんな俳壇的成功者である。鋲の頭を跳びながら来る春の朝日は傍観者では詠えない。この瞬間に存在の全体重をかけて、どっこい安藤しげるは生きている。『胸に東風』(2005)所収。(今井 聖)




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