早朝から原稿書きの一日。一晩で30枚くらいは書けた若き日の馬力はもう無い。(哲




2008ソスN2ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 1822008

 子雀に槍や鉄砲や帷子や

                           ふけとしこ

語は「子雀(雀の子)」で春。春とはいっても晩春に近いころである。雀の子は孵化してから二週間ほどで巣立ちをし、その一週間後には親と別れる。ほとんど「世間」の右も左もわからぬうちに、独立してしまう(させられてしまう)というわけだ。そんな子雀の周囲に、帷子(かたびら)はともかく、槍や鉄砲が突然に出現するのだから、おだやかではない。目を真ん丸くしている子雀の様子が、可愛らしくもあり可哀想でもあり……。ご存知の読者もおられるだろうが、これらは三つとも「雀」という名前のついた雑草である。「雀の槍」、「雀の鉄砲」、「雀の帷子」。いずれも地味な花をつける。「烏瓜」に対応して「雀瓜」があるように、植物界での雀は小さいという意味で使われることが多いようだ。調べてみたら、雀の槍の「槍」は武器としてのそれではなくて、大名行列の先頭でヤッコさんが振っている毛槍のことだそうである。たしかに、形状が似ている。ただし、雀の鉄砲はずばり武器としてのそれを指し、同様にこれも形が似ていることからの呼称だという。子雀の前に三つの雀の名のつく植物を集めた野の花束のような一句。生命賛歌である。『草あそび』(2008)所収。(清水哲男)


February 1722008

 春浅し空また月をそだてそめ

                           久保田万太郎

こをどうひっくり返しても、わたしにはこんな発想は出てこないなと思いながら、掲句を読みました。昔、鳥がいなかったら空のことはもっと分かりにくかっただろうという詩がありました。それを読んだときにもなるほどと、うならされましたが、この句にもかなり驚きました。日々大きくなって行く月の現象を、作者はそのままには放っておきません。これは何かが育てているからその嵩(かさ)を増しているのだと考えたのです。それも、よりにもよって空が育てたとは、なんとも大胆な発想です。「そだてそめ」といっています。まだ寒さの残る春の初めの空に、いったん欠けた月は、ちょうどその折り返し点にいるようです。だれかが手で触れれば、そのままそだちはじめる。「そだてそめ」、サ行の擦り寄ってくるような音がひらがなのまま、わたしたちに静かに入ってきます。多少強引な発想ではありますが、言われてみればなるほど美しく、不自然な感じがしません。句とは、なんと心に染み込むものかと、あらためて思いました。「春浅し」、今夜はこの句を思い出しながら、月を見てしまうんだろうな。『角川俳句大歳時記 春』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


February 1622008

 椿の夜あたまが邪魔でならぬかな

                           鳴戸奈菜

椿の花の時期は長いが、盛りは二月半ばから三月。花弁を散らしつつ、咲きながら散りながら冬を過ごす山茶花とは異なり、ぽたっと花ごと落ちるので、落椿という言葉もある。木偏に春は国字というが、あまり春の花という印象が強くない気がするのは、その深緑の葉の硬質な暗さや、春風を感じさせることのない落ち方のせいだろうか。それにしても掲句、あたまが邪魔なのだという。ひらがなの、あたま、は、理性、知性、思慮分別。もっと広く、本能以外のものすべてであるかもしれない。ものみな胎動し始める早春の闇に引きこまれるように、本能のおもむくままでありたい自分と、そんな一瞬にも、椿の一花が落ちる音をふと聞き分けるほどの冷静さで自分を見つめる自分。ならぬかな、にこめられた感情の強さは、同時に悲しみの強さともいえるだろう。一度お目にかかった折の、理知的で穏やかで優しい印象の笑顔と、「写生とは文字通り、生を写すこと」という言葉を思い出している。『鳴戸奈菜句集』(2005・ふらんす堂)所収。(今井肖子)




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