アラン・ロブグリエ没。わからぬながら『消しゴム』には清新な息吹を感じた。(哲




2008ソスN2ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 2022008

 ひそと来て茶いれるひとも余寒かな

                           室生犀星

春を幾日か過ぎても、まだ寒い日はある。東京に雪が降ることも珍しくない。けれども、もう寒さはそうはつづかないし、外気にも日々どこかしら弛みが感じられて、春は日一日と濃くなってゆく。机に向かって仕事をしている人のところへ、家人が熱い茶をそっと運んできたのだろうか――と読んでもいいと思ったが、調べてみるとこの句は昭和九年の作で「七條の宿」と記されている。さらにつづく句が「祗園」と記されているところから、実際は京都の宿での作と考えられる。宿の女中さんが運んできてくれた茶であろう。ホッとした気持ちも読みとれる。一言「ありがとう」。茶は熱くとも、茶を入れてくれた人にもどこかしらまだ寒さの気配が、それとなく感じられる。その「ひと」に余寒を感受したところに、掲出句のポイントがある。「ひそと来て」というこまやかな表現に、ていねいな身のこなしまでもが見えてくるようである。それゆえかすかな寒さも、同時にそこにそっと寄り添っているようにも思われる。茶をいれるタイミングもきちんと心得られているのだろう。さりげない動きのなかに余寒をとらえることによって、破綻のない一句となった。犀星には「ひなどりの羽根ととのはぬ余寒かな」という一句もある。「ひそと来て」も「羽根ととのはぬ」も、その着眼が句の生命となっている。『室生犀星句集』(1977)所収。(八木忠栄)


February 1922008

 ふらここや空の何処まで明日と言ふ

                           つつみ眞乃

日二十四節気でいうところの雨水(うすい)。立春と啓蟄に挟まれたやや地味な節気である。暦便覧には「陽気地上に発し、雪氷とけて雨水となれば也」とあり、天上から降るものが雪から雨に替わり、積もった雪も溶け始める頃を意味する。三島暦では「梅満開になる」と書かれている通り、少しあたたかい地域ではもうそこかしこで春を実感することができるだろう。掲句では「ふらここ」が春の季語。空中に遊ぶ気分は春がもっともふさわしい。ぶらんこを思いきり漕ぐとき、一番高い場所ではいつもは見えない空の端を一瞬だけ見ることができる。なんとなくちらっと見えたあたりに本物の春がきているような、ずっと向こうの明日の分の空を覗くような気分は楽しいものだ。しかしふと、丸い地球には日付変更線が確かにどこかに引かれていて、はっきりあそこは今現在も今日ではないのだと考えているうちに、くらくらと船酔いの心地にもなるのだった。〈息かけて鏡の春と擦れ違ふ〉〈羽抜鳥生きて途方に暮れゐたる〉『水の私語』(2008)所収。(土肥あき子)


February 1822008

 子雀に槍や鉄砲や帷子や

                           ふけとしこ

語は「子雀(雀の子)」で春。春とはいっても晩春に近いころである。雀の子は孵化してから二週間ほどで巣立ちをし、その一週間後には親と別れる。ほとんど「世間」の右も左もわからぬうちに、独立してしまう(させられてしまう)というわけだ。そんな子雀の周囲に、帷子(かたびら)はともかく、槍や鉄砲が突然に出現するのだから、おだやかではない。目を真ん丸くしている子雀の様子が、可愛らしくもあり可哀想でもあり……。ご存知の読者もおられるだろうが、これらは三つとも「雀」という名前のついた雑草である。「雀の槍」、「雀の鉄砲」、「雀の帷子」。いずれも地味な花をつける。「烏瓜」に対応して「雀瓜」があるように、植物界での雀は小さいという意味で使われることが多いようだ。調べてみたら、雀の槍の「槍」は武器としてのそれではなくて、大名行列の先頭でヤッコさんが振っている毛槍のことだそうである。たしかに、形状が似ている。ただし、雀の鉄砲はずばり武器としてのそれを指し、同様にこれも形が似ていることからの呼称だという。子雀の前に三つの雀の名のつく植物を集めた野の花束のような一句。生命賛歌である。『草あそび』(2008)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます