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2008ソスN2ソスソス23ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 2322008

 畦焼を終へたる錦糸卵かな

                           松岡ひでたか

焼、野焼。早春、田や畦の枯れ草を焼くことで、害虫駆除の効果があり、その灰が肥料にもなるという。野焼したあとの黒々とした野原を、末黒野(すぐろの)ということは、俳句を始めて、知った。箱根仙石原の芒原の野焼が終わった直後、まさに末黒野を目の当たりにしたことがある。秋には金色の風がうねる芒原が、黒々とその起伏を広げており、ところどころ燃え残った芒を春浅い風が揺らしていた。穏やかな日を選んでも、春の初めの風は強い。田や畦を焼くのは、一日がかりの、地域総出の、相当な緊張を強いられる一大作業だろう。錦糸卵は、多分ちらし寿司の上にのっている。無事に野焼が終えることを願って作られたちらし寿司。錦糸卵の、菜の花畑を思わせるお日さま色の鮮やかさと、口に広がるほのかな甘さが、ついさっきまでの荒々しい炎に包まれた緊張をほぐしてくれる。野焼の炎の激しさを詠むことなく、それを感じさせる、ふんわりとした錦糸卵である。『光』(2000)所収。(今井肖子)


February 2222008

 薄氷の吹かれて端の重なれる

                           深見けん二

氷が剥がれ、風に吹かれかすかに移動して下の薄氷に重なる。これぞ、真正、正調「写生」の感がある。俳句がもっともその形式の特性を生かせるはこういう描写だと思わせる。これだけのことを言って完結する、完結できるジャンルは他に皆無である。作者は選集の自選十句の中にこの句をあげ、作句信条に、虚子から学んだこととして季題発想を言い、「客観写生は、季題と心とが一つになるように対象を観察し、句を案ずることである」と書く。僕にとってのこの句の魅力の眼目は、季題の本意が生かされているところにあるのではなく、日常身辺にありながら誰もが見過ごしているところに行き届いたその「眼」の確かさにある。人は、一日に目にし、触れ、感じる無数の「瞬間」の中から、古い情緒に拠って既に色づけされた数カットにしか感動できない。他人の感動を追体験することによってしか充足せざるを得ないように「社会的」に作られているからだ。その縛りを超えて、まさに奇跡のようにこういう瞬間が得られる。アタマを使って作り上げる理詰や機智の把握とは次元の違う、自分の五感に直接訴える原初の認識と言ってもいい。季題以外から得られる「瞬間」の機微を機智と取るのは誤解。薄氷も椅子も机もネジもボルトも鼻くそも等しく僕らの生の瞬間を刻印する対象として眼の前に展開する。別冊俳句「平成秀句選集」(2007)所載。(今井 聖)


February 2122008

 牡丹雪紺碧の肉天奥に

                           大原テルカズ

先にひらひらと舞う牡丹雪。大きな雪片が牡丹の花びらに似ているのでこの名がついたのだろう。「牡丹」という言葉に触発されて雪でありながら紅が連想され不思議に美しい。牡丹雪が降ってくる空は重たい灰色の雲で覆われてはいるが、その奥に青空の一部が覗いている。説明してしまえばそれだけだが、この句は景を描写しているのではない。仕掛けられた言葉の連想の背後には作者の存在が光っている。「紺碧の肉」は青空の表現としては異質であるが、内面の痛みを読み手に感じさせる。牡丹雪を降らせる雲の切れ目は彼自身の心の裂け目なのだろう。「彼が秘かに貯えてきた多くの財宝─幼なさ、卑しさ、愚かさ、古さ、きたならしさ、ひねくれ、独り、独善、恣意と彼が呼ぶところのもの」を俳句に結晶させた。と、句集の序文で高柳重信が述べている。戦後の混乱の暮らしの中で彼自身が掴み取った精神の履歴が、従来の俳句に収まらない言葉で表現されている。「ポケットからパンツが出て来た淋しい虎」「血吐くなど浪士のごとしおばあさん」作者にとって俳句は混乱した現実を自分に引き寄せる唯一の手段であり、句になった後はもはや無用と振り返ることもなかっただろう。『黒い星』(1959)所収。(三宅やよい)




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