ビール、醤油、香辛料……今月も値上げ続々。醤油は17年半ぶりの値上げという。(哲




2008ソスN3ソスソス2ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 0232008

 三月は人の高さに歩み来る

                           榎本好宏

の外は依然として寒い風が吹きつのっています。長年横浜に住んでいますが、今年の冬は例年になく寒く感じられます。そんななか、休日の昼間、窓を閉めきった室内で春の句を拾い読みしていたら、こんな作品に出会いました。描かれている情景は分かりやすく、また親しみやすいものです。「三月」「人」「高さ」「歩む」と、扱われている単語はあくまでもありふれていて、特殊なイメージを喚起するようには作られていません。というのも、作者は感じたことを、ありふれた言葉で十分に表現できると確信したからなのです。インパクトの強い単語が、必ずしも表現の深さに繋がるものではないということを、この句を読んでいるとつくづく感じます。「人」の「高さ」という2語の結びつきだけでも、読み手にさまざまな感興をもたらしてくれます。読んでいるこちらも、その位置を高められたような気になります。等身の三月。一月二月には持てなかった親しみを、三月に感じています。衿をすぼめ、寒さに耐え、対決するようにすごしてきた月日の後に、肩をならべて一緒に時をともにすることのできる月が与えられたのです。その歩みはゆったりとしていて、後戻りをするようなこともありますが、両腕を広げ、確実に私たちの方へ歩み寄ってきてくれるのです。『四季の詞』(1988・角川書店)所載。(松下育男)


March 0132008

 遊び子のこゑの漣はるのくれ

                           林 翔

月の空はきっぱり青い。春一番が吹いて以来冴返る東京だが、空の色は少しずつうす濁ってきて今日から三月。通勤途中、どこからとなく鳥の声が降ってくるようになり、しつこい春の風邪に沈みがちな気分を和らげてくれる。春の音はきらきらしている。鳥の声も、水の流れも、聞き慣れた電車の音も、人の声も。最近の子供は外で遊ばなくなった、と言われて久しいが、買い物袋を下げて通る近所の公園には、いつもたくさんの子供が集まって、ぶらんこやシーソーに乗り、気の毒なくらい狭いスペースでバレーボールやドッヂボールに興じている。遊び子という表現は、遊んでいる子供の意であろうが、いかにも、今遊んでいるそのこと以外何も考えていない子供である。その子供達の楽しそうな笑い声が、日の落ちかけた茜色の空に漣のように広がっていく。こゑ、と、はるのくれ、のやわらかな表記にはさまれた、漣。さざなみ、の音のさらさら感と、水が連なるという、文字から来る実感を持つこの一文字が効果的に配されている。今日より確実に春色の深まる明日へ続く夕暮れである。『幻化』(1984)所収。(今井肖子)


February 2922008

 灯点して妻現れず春の家

                           岩城久治

年ほど前、どこかの年鑑でこの句を最初眼にしたとき、尋常ならざる気配を感じたのだった。帰宅して暗い部屋に灯を点す。誰も現れない。現れるはずの、というより既に灯を点して待っているはずの妻がいないのだ。買い物など用事があって予定通りの不在なら妻現れずというだろうか。そして「春の家」の不思議さ。春という季題を用いる場合、それを「家」の形容に用いるのは、ふつうなら、特に伝統派なら、繊細さの欠けた用法とするところだ。季節感を持たない「家」に安直に「春」を重ねたと。しかも「春の家」はイメージとしては茫とした明るさを提示する。つまりこの句は何か変なのだ。日常を描いていながらこの叙述から湧き起こってくる違和感は何だろうと考えていくうち、この「妻」はひょっとして既にこちら側の世界にいないのではなかろうかという推測を抱くに至る。そんな感想を持ってしばらくして、作者が妻を亡くされた直後の作という事実をどこかで眼にした。思いはどこかで言葉に浸透し、形式と一緒になって言葉が持っている機能の限界を超えて鑑賞者に伝わる。どんなに言葉の機能を探り規定しても、そこからはみ出す「霊」のごときものがある。作者の名や作者の人生がわからなければ鑑賞できないのは俳句が芸術性において劣っている証拠だという「第二芸術」の問題提起が戦後あった。妻が死んだとも言わず、それを暗示する暗い内面を書き記すでもなく、それでもその深い悲しみが伝わる。これを形式の恩寵と言わずになんと言おう。桑原武夫さんにこの句を見せてみたい。『平成俳句選集』(1998)所収。(今井 聖)




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