今日と明日は調布深大寺ダルマ市。ウイークデイであろうが毎年同じ開催日だ。(哲




2008ソスN3ソスソス3ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 0332008

 水温みけり人発ちて鳥去りて

                           橋本榮治

語「水温(ぬる)む」の用法として、掲句のように「けり」とすっぱり切った句はあまり例がないように思う。なんとなく暖かくなってきた感じの水の状態を指して、そのまま「水温む」とゆるやかに使用するのが通例だが、この句では「けり」と言い切ることで、「水温む」よりももっと後の時間を詠み込んでいる。すっかり春になってしまったなあ、という感慨句だ。雁や白鳥たちも北に帰ってしまい、春は人事的にも別れの季節だから、身近にも発って行った人がいるのである。この喪失感が「けり」によって増幅されていて、春という明るい季節のなかの寂しさがより深く印象づけられる。この一句からだけでは、これくらいの解釈しかできないが、句集を読むと、実は発って行った人が、この年の春を目前に亡くなった作者の妹さんであることがわかり(「妹」連作)、そのことを知れば「けり」としなければならなかった理由もより鮮明に納得されるし、悲哀感に満ちた句として読者の心が染め替えられることにもなってくる。「荼毘の音聞かず寒風の中に在り」、「梅ひとつふたあついもうと失ひき」。今日は女の子の節句雛祭り。作者はしみじみと、妹さんとの日々を思い出すことだろう。『放神』(2008)所収。(清水哲男)


March 0232008

 三月は人の高さに歩み来る

                           榎本好宏

の外は依然として寒い風が吹きつのっています。長年横浜に住んでいますが、今年の冬は例年になく寒く感じられます。そんななか、休日の昼間、窓を閉めきった室内で春の句を拾い読みしていたら、こんな作品に出会いました。描かれている情景は分かりやすく、また親しみやすいものです。「三月」「人」「高さ」「歩む」と、扱われている単語はあくまでもありふれていて、特殊なイメージを喚起するようには作られていません。というのも、作者は感じたことを、ありふれた言葉で十分に表現できると確信したからなのです。インパクトの強い単語が、必ずしも表現の深さに繋がるものではないということを、この句を読んでいるとつくづく感じます。「人」の「高さ」という2語の結びつきだけでも、読み手にさまざまな感興をもたらしてくれます。読んでいるこちらも、その位置を高められたような気になります。等身の三月。一月二月には持てなかった親しみを、三月に感じています。衿をすぼめ、寒さに耐え、対決するようにすごしてきた月日の後に、肩をならべて一緒に時をともにすることのできる月が与えられたのです。その歩みはゆったりとしていて、後戻りをするようなこともありますが、両腕を広げ、確実に私たちの方へ歩み寄ってきてくれるのです。『四季の詞』(1988・角川書店)所載。(松下育男)


March 0132008

 遊び子のこゑの漣はるのくれ

                           林 翔

月の空はきっぱり青い。春一番が吹いて以来冴返る東京だが、空の色は少しずつうす濁ってきて今日から三月。通勤途中、どこからとなく鳥の声が降ってくるようになり、しつこい春の風邪に沈みがちな気分を和らげてくれる。春の音はきらきらしている。鳥の声も、水の流れも、聞き慣れた電車の音も、人の声も。最近の子供は外で遊ばなくなった、と言われて久しいが、買い物袋を下げて通る近所の公園には、いつもたくさんの子供が集まって、ぶらんこやシーソーに乗り、気の毒なくらい狭いスペースでバレーボールやドッヂボールに興じている。遊び子という表現は、遊んでいる子供の意であろうが、いかにも、今遊んでいるそのこと以外何も考えていない子供である。その子供達の楽しそうな笑い声が、日の落ちかけた茜色の空に漣のように広がっていく。こゑ、と、はるのくれ、のやわらかな表記にはさまれた、漣。さざなみ、の音のさらさら感と、水が連なるという、文字から来る実感を持つこの一文字が効果的に配されている。今日より確実に春色の深まる明日へ続く夕暮れである。『幻化』(1984)所収。(今井肖子)




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