松永伍一氏没。丸山豊、谷川雁、川崎洋も彼岸の人。久留米抒情派も寂しくなった。(哲




2008ソスN3ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 0632008

 鳥の戀祝辞は胸にたたまれて

                           小山森生

字体の形には意味が美しく織り込まれている。「戀」には神への誓約に糸飾りをつけてその言葉に真実違うところがないことを表すとともに、神を楽しませる意を含んでいると白川静の『字統』にある。恋という字に「言葉」が含まれているとは。旧字体になじみのない私には新鮮な驚きだった。祝辞にもいろいろあるけど、天上の鳥たちが囀るこの時期に想像されるのは先生から卒業する生徒へ贈る言葉、在校生が卒業生を送る言葉だろうか。数日間頭を絞って考えられた言葉は別れであっても輝かしい未来を祝すもの。相手を思いやる心が込められた祝辞が四角く折りたたまれてポケットに収められている。それは祝辞の状態を表すともに言葉を受け取る側の心持ちと重なるところがある。卒業する生徒達に別れの実感はまだ乏しいかもしれないが、「じゃあね」と校門で手を振ったきり、二度と顔を合わすことのない先生や友人も多くいるだろう。何十年も経てから別れの意味がわかるように、この日の祝辞も心の隅からふと思い出される時が来るかもしれない。新しい道に踏み出す卒業生が幸せでありますように。「鳥の戀」が胸にたたまれた祝辞をおおらかな春空へと誘ってゆくようで、気持ちの良い言葉の風景を作りだしている。俳誌「努(ゆめ)」(2007/3/1発行第69号)所載。(三宅やよい)


March 0532008

 春うらら葛西の橋の親子づれ

                           北條 誠

んなのどかな春の風景はもうなくなった、とは思いたくない。都会を離れれば、こういううららかな親子づれの光景はまだ見られるだろう。いかにものどかで、思わずあくびでも出そうな味わいの景色である。時折、こんな句に出くわすと、足を止めてしばし呼吸を整えたくなる。葛西は荒川を越えた東に位置する江戸川区の土地である。「葛西の橋」を「葛西橋」と特定してもいいように思う。もちろん葛西には旧江戸川にかかる橋もあることはある。江東区南砂と江戸川区葛西を一直線で結ぶ道路の、荒川にかかっているのが葛西橋である。葛西橋は他にも俳句に詠まれていて、のどかな時間がゆったり流れていることもあれば、せつなくも侘しい時間が流れていることもある。「葛西」という川向こうの土地がかもし出すイメージが、「親子づれ」をごく自然に導き出してくれている。小津安二郎(?)か誰かの映画のワンカットで、「葛西橋」とはっきり書かれた木の橋の欄干が映し出された画面が私の記憶に残っている。映画の題名も監督も、今や正確には思い出せない。この「親子」はどんな氏素性をもった親子なのか、何やらドラマの一場面のようにも想像されてくる。北條誠は脚本家として映画「この世の花」をはじめ、多くの小説や脚本を残した。「まつ人もなくて手酌のおぼろかな」「永代の橋の長さや夏祭」等々、気張らず穏かな俳句が多い。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


March 0432008

 白魚のいづくともなく苦かりき

                           田中裕明

タクチイワシなどの稚魚であるしらすと同様、白魚(しらうお)もなにかの稚魚だとばかり思っていたが、成長しても白魚は白魚。美しく透き通る姿のままで一生を終える魚だった。鮎やワカサギなどと近い種類というと滑らかな身体に納得できる。また「しろうお」はハゼの仲間で別種だという。ともあれ、どちらも姿のまま、ときには生きたまま食される魚たちである。「おどり」と呼ばれる食し方には、いかにも初物を愛でる喜びがあるとはいえ、ハレの勢いなくしては躊躇するものではなかろうか。矢田津世子の小説『茶粥の記』に出てくる「白魚のをどり食ひ」のくだりは、朱塗りの器に泳がせた白魚を「用意してある柚子の搾り醤油に箸の先きのピチピチするやつをちよいとくぐらして食ふんだが、その旨いことつたらお話にならない。酢味噌で食つても結構だ。人によつてはポチツと黒いあの目玉のところが泥臭くて叶はんといふが、あの泥臭い味が乙なのだ。」と語られる。筆致の素晴らしさには舌を巻くが、意気地のない我が食指は一向に動かない。だからこそ掲句の「いづくともなく」湧く苦みに共感するのだろう。味覚のそれだけではなく、いのちを噛み砕くことに感じる苦みが口中をめぐるのである。『夜の客人』(2005)所収。(土肥あき子)




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