ほほお、最近珍しい店だ↓。記念に撮っておく。吉祥寺ヨドバシカメラの8階也。(哲




2008ソスN3ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 0732008

 春昼の背後に誰か来て祈る

                           横山房子

から下に向かって書かれたものは上から読まれる。「春昼の背後に」と読み下していくと、そこにまず時間と場所の設定を思う。次に「誰か来て」。ここまでなら読み手の琴線を揺さぶるものはない。これは春昼という季題の本意を意識した上で背後に人の気配を感じる内容だろうと。それだけなら陳腐平凡だなあと予想するわけである。ところが最後の二文字で様相は一変する。「祈る」とあることで教会という空間が特定され「春昼の背後」が大きく包みこまれる。神社なら内容の静かさにそぐわないし、墓前なら「誰か」とは言わない。教会での静かな祈りのつぶやきが聞こえてくる。祈りの静謐の中での聴覚のリアル。「祈る」は空間のみならず行為も特定する。この二文字がこの句のテーマになるのである。叙述の最後の最後に来て作品が蘇る。逆転満塁ホームランのような句だ。縦書き表記の効用も思う。横書きだと左から右へ読んで行くが、横一列全体がなめらかに眼に入る。読み下して「祈る」に出会う衝撃力はやはり縦書きでこそ得られるものだ。『平成俳句選集』(1998)所収。(今井 聖)


March 0632008

 鳥の戀祝辞は胸にたたまれて

                           小山森生

字体の形には意味が美しく織り込まれている。「戀」には神への誓約に糸飾りをつけてその言葉に真実違うところがないことを表すとともに、神を楽しませる意を含んでいると白川静の『字統』にある。恋という字に「言葉」が含まれているとは。旧字体になじみのない私には新鮮な驚きだった。祝辞にもいろいろあるけど、天上の鳥たちが囀るこの時期に想像されるのは先生から卒業する生徒へ贈る言葉、在校生が卒業生を送る言葉だろうか。数日間頭を絞って考えられた言葉は別れであっても輝かしい未来を祝すもの。相手を思いやる心が込められた祝辞が四角く折りたたまれてポケットに収められている。それは祝辞の状態を表すともに言葉を受け取る側の心持ちと重なるところがある。卒業する生徒達に別れの実感はまだ乏しいかもしれないが、「じゃあね」と校門で手を振ったきり、二度と顔を合わすことのない先生や友人も多くいるだろう。何十年も経てから別れの意味がわかるように、この日の祝辞も心の隅からふと思い出される時が来るかもしれない。新しい道に踏み出す卒業生が幸せでありますように。「鳥の戀」が胸にたたまれた祝辞をおおらかな春空へと誘ってゆくようで、気持ちの良い言葉の風景を作りだしている。俳誌「努(ゆめ)」(2007/3/1発行第69号)所載。(三宅やよい)


March 0532008

 春うらら葛西の橋の親子づれ

                           北條 誠

んなのどかな春の風景はもうなくなった、とは思いたくない。都会を離れれば、こういううららかな親子づれの光景はまだ見られるだろう。いかにものどかで、思わずあくびでも出そうな味わいの景色である。時折、こんな句に出くわすと、足を止めてしばし呼吸を整えたくなる。葛西は荒川を越えた東に位置する江戸川区の土地である。「葛西の橋」を「葛西橋」と特定してもいいように思う。もちろん葛西には旧江戸川にかかる橋もあることはある。江東区南砂と江戸川区葛西を一直線で結ぶ道路の、荒川にかかっているのが葛西橋である。葛西橋は他にも俳句に詠まれていて、のどかな時間がゆったり流れていることもあれば、せつなくも侘しい時間が流れていることもある。「葛西」という川向こうの土地がかもし出すイメージが、「親子づれ」をごく自然に導き出してくれている。小津安二郎(?)か誰かの映画のワンカットで、「葛西橋」とはっきり書かれた木の橋の欄干が映し出された画面が私の記憶に残っている。映画の題名も監督も、今や正確には思い出せない。この「親子」はどんな氏素性をもった親子なのか、何やらドラマの一場面のようにも想像されてくる。北條誠は脚本家として映画「この世の花」をはじめ、多くの小説や脚本を残した。「まつ人もなくて手酌のおぼろかな」「永代の橋の長さや夏祭」等々、気張らず穏かな俳句が多い。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




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