毎週土曜日の楽しみは藤倉明治氏の「世界の民族楽器」。奥深く面白い世界だ。(哲




2008ソスN3ソスソス8ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 0832008

 外に出よと詩紡げよと立子の忌

                           岡田順子

年めぐってくる忌日。〈生きてゐるものに忌日や神無月 今橋眞理子〉は、親しい友人の一周忌に詠まれた句だが、まことその通りとしみじみ思う。星野立子の忌日は三月三日。掲出句とは、昨年三月二十五日の句会で出会った。立子忌が兼題であったので、飾られた雛や桃の花を見つつ、空を仰ぎつつ、立子と、立子の句と向き合って過ごした一日であったのだろう。〈吾も春の野に下り立てば紫に〉〈下萌えて土中に楽のおこりたる〉〈曇りゐて何か暖か何か楽し〉まさに、外(と)に出て、春の真ん中で詠まれた句の数々は、感じたままを詩(うた)として紡いでいる。出よ、紡げよ、と言葉の調子は叱咤激励されているように読めるが、立子を思う作者の心中はどちらかといえば静か。明るさを増してきた光の中で、俳句に対する思いを新たにしている。今年もめぐって来た立子忌に、ふとこの句を思い出した。このところ俳句を作る時、作ってすぐそれを鑑賞している自分がいたり、へたすると作る前から鑑賞モードの自分がいるように思えることがあるのだ。ああ、考えるのはやめて外へ出よう。(今井肖子)


March 0732008

 春昼の背後に誰か来て祈る

                           横山房子

から下に向かって書かれたものは上から読まれる。「春昼の背後に」と読み下していくと、そこにまず時間と場所の設定を思う。次に「誰か来て」。ここまでなら読み手の琴線を揺さぶるものはない。これは春昼という季題の本意を意識した上で背後に人の気配を感じる内容だろうと。それだけなら陳腐平凡だなあと予想するわけである。ところが最後の二文字で様相は一変する。「祈る」とあることで教会という空間が特定され「春昼の背後」が大きく包みこまれる。神社なら内容の静かさにそぐわないし、墓前なら「誰か」とは言わない。教会での静かな祈りのつぶやきが聞こえてくる。祈りの静謐の中での聴覚のリアル。「祈る」は空間のみならず行為も特定する。この二文字がこの句のテーマになるのである。叙述の最後の最後に来て作品が蘇る。逆転満塁ホームランのような句だ。縦書き表記の効用も思う。横書きだと左から右へ読んで行くが、横一列全体がなめらかに眼に入る。読み下して「祈る」に出会う衝撃力はやはり縦書きでこそ得られるものだ。『平成俳句選集』(1998)所収。(今井 聖)


March 0632008

 鳥の戀祝辞は胸にたたまれて

                           小山森生

字体の形には意味が美しく織り込まれている。「戀」には神への誓約に糸飾りをつけてその言葉に真実違うところがないことを表すとともに、神を楽しませる意を含んでいると白川静の『字統』にある。恋という字に「言葉」が含まれているとは。旧字体になじみのない私には新鮮な驚きだった。祝辞にもいろいろあるけど、天上の鳥たちが囀るこの時期に想像されるのは先生から卒業する生徒へ贈る言葉、在校生が卒業生を送る言葉だろうか。数日間頭を絞って考えられた言葉は別れであっても輝かしい未来を祝すもの。相手を思いやる心が込められた祝辞が四角く折りたたまれてポケットに収められている。それは祝辞の状態を表すともに言葉を受け取る側の心持ちと重なるところがある。卒業する生徒達に別れの実感はまだ乏しいかもしれないが、「じゃあね」と校門で手を振ったきり、二度と顔を合わすことのない先生や友人も多くいるだろう。何十年も経てから別れの意味がわかるように、この日の祝辞も心の隅からふと思い出される時が来るかもしれない。新しい道に踏み出す卒業生が幸せでありますように。「鳥の戀」が胸にたたまれた祝辞をおおらかな春空へと誘ってゆくようで、気持ちの良い言葉の風景を作りだしている。俳誌「努(ゆめ)」(2007/3/1発行第69号)所載。(三宅やよい)




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