家人にねんきん特別便が届いた。記録洩れはわかったが昔の正式な職場名が不明。(哲




2008ソスN3ソスソス9ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 0932008

 いづかたも水行く途中春の暮

                           永田耕衣

の暮といえば、春の夕暮れを意味し、暮の春といえば、晩春のことを意味します。この句はですから、春の夕暮れ時を詠んでいます。「いづかたも」を「どちらの方向へも」と読むなら、その日の夕暮れ時に、ぬるんだ水が、どちらの方向へも広がるように流れて行くと、この句を解釈することができます。その流れの悠揚さが、自然のおおきないとなみにしたがっており、「途中」の一語が、世の無常を示しているようにも読み取れます。あるいは、「いづかたも」を「だれも」と解釈すれば、だれでもが、内面にたえまなく流れ去るものを持ち、すべてのおこないや出来事は、命の果てへ到達する途中のことでしかないのだと、読みとることも出来ます。どちらの解釈をとるにしても、どこか達観した意識で、物事を見つめているように感じられます。春は卒業、入学試験、人事異動と、大切な区切り目を越えなければならない時期です。見事にその区切りを越えられた人はともかく、そうでなかった人も、たくさんいるはずです。しかし、どんなに気の滅入る結果でも、所詮は流れ行く水のように、「途中」の出来事でしかないのだと、この句に肩をたたかれたように感じても、かまわないと思うのです。『俳句観賞450番勝負』(2007・文芸春秋) 所載。(松下育男)


March 0832008

 外に出よと詩紡げよと立子の忌

                           岡田順子

年めぐってくる忌日。〈生きてゐるものに忌日や神無月 今橋眞理子〉は、親しい友人の一周忌に詠まれた句だが、まことその通りとしみじみ思う。星野立子の忌日は三月三日。掲出句とは、昨年三月二十五日の句会で出会った。立子忌が兼題であったので、飾られた雛や桃の花を見つつ、空を仰ぎつつ、立子と、立子の句と向き合って過ごした一日であったのだろう。〈吾も春の野に下り立てば紫に〉〈下萌えて土中に楽のおこりたる〉〈曇りゐて何か暖か何か楽し〉まさに、外(と)に出て、春の真ん中で詠まれた句の数々は、感じたままを詩(うた)として紡いでいる。出よ、紡げよ、と言葉の調子は叱咤激励されているように読めるが、立子を思う作者の心中はどちらかといえば静か。明るさを増してきた光の中で、俳句に対する思いを新たにしている。今年もめぐって来た立子忌に、ふとこの句を思い出した。このところ俳句を作る時、作ってすぐそれを鑑賞している自分がいたり、へたすると作る前から鑑賞モードの自分がいるように思えることがあるのだ。ああ、考えるのはやめて外へ出よう。(今井肖子)


March 0732008

 春昼の背後に誰か来て祈る

                           横山房子

から下に向かって書かれたものは上から読まれる。「春昼の背後に」と読み下していくと、そこにまず時間と場所の設定を思う。次に「誰か来て」。ここまでなら読み手の琴線を揺さぶるものはない。これは春昼という季題の本意を意識した上で背後に人の気配を感じる内容だろうと。それだけなら陳腐平凡だなあと予想するわけである。ところが最後の二文字で様相は一変する。「祈る」とあることで教会という空間が特定され「春昼の背後」が大きく包みこまれる。神社なら内容の静かさにそぐわないし、墓前なら「誰か」とは言わない。教会での静かな祈りのつぶやきが聞こえてくる。祈りの静謐の中での聴覚のリアル。「祈る」は空間のみならず行為も特定する。この二文字がこの句のテーマになるのである。叙述の最後の最後に来て作品が蘇る。逆転満塁ホームランのような句だ。縦書き表記の効用も思う。横書きだと左から右へ読んで行くが、横一列全体がなめらかに眼に入る。読み下して「祈る」に出会う衝撃力はやはり縦書きでこそ得られるものだ。『平成俳句選集』(1998)所収。(今井 聖)




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