東京大空襲。大人も子供も防空壕から這い出て真っ赤に灼けた空を眺めていた。(哲




2008ソスN3ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 1032008

 日の丸を洗ふ春水にごりけり

                           鳥海むねき

者は昭和十一年生まれ。今と違って旗日(祝日)には、各家ごとに「日の丸」を掲揚した時代を知っている人だ。したがって、国旗に対する思いにも、戦後生まれの人々とはおのずから異なったものがあるだろう。その思いの中身は句には書いてないけれど、掲句からにじみ出てくるのは国旗に対してのいささか苦いそれであるような気がする。日の丸の旗は普通の風呂敷などよりもかなり大きいので、普段の洗濯用の盥で洗うのは大変だ。手っ取り早いところで、近所の小川や清水などで洗ったものである。春の小川は温かい日差しを受けてキラキラと輝き、水かさも冬よりは増していて豊かな感じがする。そこに汚れた国旗を勢い良く沈めると、川底の小さな砂粒がいっせいに浮き上がってくる。そんな情景を作者はただ忠実に写生しているだけなのだが、そう見せているだけで、作者は読者にいろいろな思いを語りかけているのであろう。もっと言えば、読者のほうが「日の丸」に対する思いをあらためて問われていると意識せざるを得ない句だと言える。そして、こうして洗われた国旗には丁寧にアイロンがかけられ、箪笥の奥にきちんとしまわれる。そんな時代がたしかにあった。今となっては夢のようだけれど。『只今』(2007)所収。(清水哲男)


March 0932008

 いづかたも水行く途中春の暮

                           永田耕衣

の暮といえば、春の夕暮れを意味し、暮の春といえば、晩春のことを意味します。この句はですから、春の夕暮れ時を詠んでいます。「いづかたも」を「どちらの方向へも」と読むなら、その日の夕暮れ時に、ぬるんだ水が、どちらの方向へも広がるように流れて行くと、この句を解釈することができます。その流れの悠揚さが、自然のおおきないとなみにしたがっており、「途中」の一語が、世の無常を示しているようにも読み取れます。あるいは、「いづかたも」を「だれも」と解釈すれば、だれでもが、内面にたえまなく流れ去るものを持ち、すべてのおこないや出来事は、命の果てへ到達する途中のことでしかないのだと、読みとることも出来ます。どちらの解釈をとるにしても、どこか達観した意識で、物事を見つめているように感じられます。春は卒業、入学試験、人事異動と、大切な区切り目を越えなければならない時期です。見事にその区切りを越えられた人はともかく、そうでなかった人も、たくさんいるはずです。しかし、どんなに気の滅入る結果でも、所詮は流れ行く水のように、「途中」の出来事でしかないのだと、この句に肩をたたかれたように感じても、かまわないと思うのです。『俳句観賞450番勝負』(2007・文芸春秋) 所載。(松下育男)


March 0832008

 外に出よと詩紡げよと立子の忌

                           岡田順子

年めぐってくる忌日。〈生きてゐるものに忌日や神無月 今橋眞理子〉は、親しい友人の一周忌に詠まれた句だが、まことその通りとしみじみ思う。星野立子の忌日は三月三日。掲出句とは、昨年三月二十五日の句会で出会った。立子忌が兼題であったので、飾られた雛や桃の花を見つつ、空を仰ぎつつ、立子と、立子の句と向き合って過ごした一日であったのだろう。〈吾も春の野に下り立てば紫に〉〈下萌えて土中に楽のおこりたる〉〈曇りゐて何か暖か何か楽し〉まさに、外(と)に出て、春の真ん中で詠まれた句の数々は、感じたままを詩(うた)として紡いでいる。出よ、紡げよ、と言葉の調子は叱咤激励されているように読めるが、立子を思う作者の心中はどちらかといえば静か。明るさを増してきた光の中で、俳句に対する思いを新たにしている。今年もめぐって来た立子忌に、ふとこの句を思い出した。このところ俳句を作る時、作ってすぐそれを鑑賞している自分がいたり、へたすると作る前から鑑賞モードの自分がいるように思えることがあるのだ。ああ、考えるのはやめて外へ出よう。(今井肖子)




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