2008ソスN3ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 1132008

 摘草や一人は雲の影に入る

                           薬師寺彦介

よいよ日差しも本格的に春の明るさとなり、野にしゃがんで若草に手を伸ばしたくなる陽気となった。「摘草(つみくさ)」とは「嫁菜(よめな)・蓬(よもぎ)・土筆(つくし)・蒲公英(たんぽぽ)・芹(せり)など食用になる草を摘むこと」と歳時記にはあるが、柔らかな春の草は思わず触れてみたくなるものだ。目指す草を摘むとなると、始めはなかなか見つからないものが、だんだんとそればかりが目につくようになり、我を忘れて歩を進め、気がつくと思わぬ場所まで移動していることがある。太陽がぬくぬくと背中をあたため、視線は一途に地面だけを見つめているときに、唐突に目の前が暗くなる。大きな雲がゆっくりと動いたために起こるほんのひとときの日陰が、おどろくほどの暗闇に陥ったような心細さを感じさせるのだ。掲句はその様子を外側から見ている。白昼の野原で、雲の影が移動しながらゆっくりと人を飲み込む。それはまるで、邪悪な黒い手がじわじわと後ろから迫るのをむざむざ見ているような、妙な禍々しさも感じさせる。春の野に差し込む日差しが万華鏡のようにめくるめき、光があやなす不思議な一瞬である。〈尾根といふ大地の背骨春の雷〉〈春一番鍬の頭に楔打つ〉『陸封』(2006)所収。(土肥あき子)


March 1032008

 日の丸を洗ふ春水にごりけり

                           鳥海むねき

者は昭和十一年生まれ。今と違って旗日(祝日)には、各家ごとに「日の丸」を掲揚した時代を知っている人だ。したがって、国旗に対する思いにも、戦後生まれの人々とはおのずから異なったものがあるだろう。その思いの中身は句には書いてないけれど、掲句からにじみ出てくるのは国旗に対してのいささか苦いそれであるような気がする。日の丸の旗は普通の風呂敷などよりもかなり大きいので、普段の洗濯用の盥で洗うのは大変だ。手っ取り早いところで、近所の小川や清水などで洗ったものである。春の小川は温かい日差しを受けてキラキラと輝き、水かさも冬よりは増していて豊かな感じがする。そこに汚れた国旗を勢い良く沈めると、川底の小さな砂粒がいっせいに浮き上がってくる。そんな情景を作者はただ忠実に写生しているだけなのだが、そう見せているだけで、作者は読者にいろいろな思いを語りかけているのであろう。もっと言えば、読者のほうが「日の丸」に対する思いをあらためて問われていると意識せざるを得ない句だと言える。そして、こうして洗われた国旗には丁寧にアイロンがかけられ、箪笥の奥にきちんとしまわれる。そんな時代がたしかにあった。今となっては夢のようだけれど。『只今』(2007)所収。(清水哲男)


March 0932008

 いづかたも水行く途中春の暮

                           永田耕衣

の暮といえば、春の夕暮れを意味し、暮の春といえば、晩春のことを意味します。この句はですから、春の夕暮れ時を詠んでいます。「いづかたも」を「どちらの方向へも」と読むなら、その日の夕暮れ時に、ぬるんだ水が、どちらの方向へも広がるように流れて行くと、この句を解釈することができます。その流れの悠揚さが、自然のおおきないとなみにしたがっており、「途中」の一語が、世の無常を示しているようにも読み取れます。あるいは、「いづかたも」を「だれも」と解釈すれば、だれでもが、内面にたえまなく流れ去るものを持ち、すべてのおこないや出来事は、命の果てへ到達する途中のことでしかないのだと、読みとることも出来ます。どちらの解釈をとるにしても、どこか達観した意識で、物事を見つめているように感じられます。春は卒業、入学試験、人事異動と、大切な区切り目を越えなければならない時期です。見事にその区切りを越えられた人はともかく、そうでなかった人も、たくさんいるはずです。しかし、どんなに気の滅入る結果でも、所詮は流れ行く水のように、「途中」の出来事でしかないのだと、この句に肩をたたかれたように感じても、かまわないと思うのです。『俳句観賞450番勝負』(2007・文芸春秋) 所載。(松下育男)




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