ああ下関商業が負けちゃった。でも、また夏がある。結果的に選抜は敗者に優しい。(哲




2008ソスN3ソスソス24ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 2432008

 泥棒や強盗に日の永くなり

                           鈴木六林男

日それとわかるほどに、日が永くなってきた。以前にも書いたように、私は「春は夕暮れ」派だから、このところは毎夕ちっぽけな幸福感を味わっている。そんなある日の夕暮れに、この句と出会った。思わず、吹き出した。そうか、日永を迷惑に感じる人間もいるのだ。例外はあるにしても、たいていの「泥棒」や「強盗」は、夜陰に乗じて動くものである。明るいと、仕事がしにくい。したがって、多くの人たちが歓迎する日永も、彼らにとっては敵なのである。泥棒や強盗を専業(?)にしている人間がいるとすれば、立春を過ぎたあたりから、だんだんと不愉快さが増してくるはずだ。部屋にこもって仏頂面をしたまんま、じりじりしながらひたすら表が暗くなるのを待っている姿を想像すると、無性におかしい。おかしがりながらも、しかし作者は句の裏側で日永をゆったりと楽しんでいるわけで、このひねくれ具合も、また十分におかしくも楽しいではないか。六林男の晩年に近い時期の句であるが、こうした発想やセンスはいったいどこから沸いてくるものなのだろうか。あやかりたいとは思うけれども、私にはとても出来ない相談のように思える。『鈴木六林男全句集』(2008)所収。(清水哲男)


March 2332008

 鉛筆を短くもちて春の風邪

                           岡田史乃

年は、我が家には受験生がいたため、家族全員風邪を引かないようにと、例年よりも注意をしていました。昨年末の予防接種はもちろん受け、手洗い、うがいを欠かしませんでした。一年間努力してきた結果が、父親の不摂生で台無しにしてしまってはと、気をつかいながら冬の日々をすごしていたのです。この句の、「春の風邪」という言葉を見てまず思ったのは、ですから、緊張から開放されて、ほっとしたところに風邪を引いてしまった人の姿でした。風邪による体のだるさと、陽気の暖かさによるだるさ、さらには緊張の解けた精神的なだるさも加わって、今日は家でゆっくりと休んでいるしかないのだというところなのでしょうか。それでも、どうしても今日中に連絡しなければならない事柄はあり、手紙を書き始めたのです。文字を書きながらも体はだるく、前へ前へと傾いて行きます。鉛筆の持ち方もいつもよりしっかりと、根元のところを持って、一文字一文字力を込めなければ、きちんとしたことが書けません。「春の風邪」と、「鉛筆を短く持つ」という動作の関係が、無理なく、ほどよい距離で繋がっています。『四季の詞』(1988・角川書店)所載。(松下育男)


March 2232008

 ジプシーの馬車に珈琲の花吹雪

                           目黒はるえ

ラジル季寄せには、春(八月、九月、十月)の項に、花珈琲(はなカフェー)とあるので、この句の場合も、珈琲(カフェー)の花吹雪、と読むのだろう。なるほどその方が上五とのバランスも調べもよい。前出の季寄せには「春の気候となり雨が大地を潤すと、珈琲樹は一斉に花を開く」とある。残念ながら、珈琲の花は写真でしか見たことがないが、白くてかわいらしい花で、その花期は長いが、一花一花はほんの二、三日で散ってしまうという。広大な珈琲園が春の潤いに覆われる頃、珈琲の花は次々に咲き、次々に散ってゆく。ジャスミンに似た芳香を放ちながら、ひたすら舞いおちる花の中を、ジプシーの馬車が遠ざかる。やがて馬車は見えなくなって、花珈琲の香りと共に残された自分が佇んでいる。花吹雪から桜を思い浮かべ、桜、日本、望郷の念、と連想する見方もあるかもしれない。けれど、真っ白な花散る中、所在を点々とするジプシーを見送るのは、ブラジルの大地にしっかりと立つ作者の強い意志を持った眼差しである。あとがきに(句集をまとめるきっかけは)「三十五年振りの訪日」とある。〈春愁の掌に原石の黒ダイヤ〉〈鶏飼ひの蠅豚飼ひの蠅生る〉など、ブラジルで初めて俳句に出会って二十七年、遠い彼の地の四季を詠んだ句集『珈琲の花』(1963)。(今井肖子)




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