4月からの再診料、「5分以上」の診察に520円加算。名実ともに医は算術に。(哲




2008ソスN3ソスソス25ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 2532008

 爪先の方向音痴蝶の昼

                           高橋青塢

在では自他ともに認める方向音痴だが、それを確信したのは多摩川の土手に立ち、川下が分からなかったときだ。ゆるやかな流れの大きな川を目の前に、さて右手と左手、どちら側に海があるのかが分からない。なにか浮いたものが流れてはいないかと目を凝らしていると、「そんなことも分からないのか」とどっと笑われた。一斉に笑ってはいたが、おそらくその中の二、三人はわたし同様、風の匂いをくんくん嗅いでみたり、わけもわからず鳥の飛ぶ方角を眺めたりしていたと思うのだが。最近は携帯電話で現在位置を指示し、目的地をナビゲートしてくれる至れり尽くせりのサービスもあるが、表示された地図までもぐるぐると回して見ているのだからひどいものだ。そこを掲句では、下五の「蝶の昼」で、舞う蝶に惑わされたかのようにぴたりと作用させた。英語でぎっくり腰を「魔女の一撃」と呼ぶように、救いがたい方向音痴を「蝶を追う爪先」と、どこかの国では呼んでいるのかとさえ思うほどである。たびたび幻の蝶を追いかける我が爪先が、掲句によって愚かしくも愛おしく感じるのだった。〈青き踏む名を呼ぶほどに離れては〉〈このあたり源流ならむ囀れる〉『双沼』(2008)所収。(土肥あき子)


March 2432008

 泥棒や強盗に日の永くなり

                           鈴木六林男

日それとわかるほどに、日が永くなってきた。以前にも書いたように、私は「春は夕暮れ」派だから、このところは毎夕ちっぽけな幸福感を味わっている。そんなある日の夕暮れに、この句と出会った。思わず、吹き出した。そうか、日永を迷惑に感じる人間もいるのだ。例外はあるにしても、たいていの「泥棒」や「強盗」は、夜陰に乗じて動くものである。明るいと、仕事がしにくい。したがって、多くの人たちが歓迎する日永も、彼らにとっては敵なのである。泥棒や強盗を専業(?)にしている人間がいるとすれば、立春を過ぎたあたりから、だんだんと不愉快さが増してくるはずだ。部屋にこもって仏頂面をしたまんま、じりじりしながらひたすら表が暗くなるのを待っている姿を想像すると、無性におかしい。おかしがりながらも、しかし作者は句の裏側で日永をゆったりと楽しんでいるわけで、このひねくれ具合も、また十分におかしくも楽しいではないか。六林男の晩年に近い時期の句であるが、こうした発想やセンスはいったいどこから沸いてくるものなのだろうか。あやかりたいとは思うけれども、私にはとても出来ない相談のように思える。『鈴木六林男全句集』(2008)所収。(清水哲男)


March 2332008

 鉛筆を短くもちて春の風邪

                           岡田史乃

年は、我が家には受験生がいたため、家族全員風邪を引かないようにと、例年よりも注意をしていました。昨年末の予防接種はもちろん受け、手洗い、うがいを欠かしませんでした。一年間努力してきた結果が、父親の不摂生で台無しにしてしまってはと、気をつかいながら冬の日々をすごしていたのです。この句の、「春の風邪」という言葉を見てまず思ったのは、ですから、緊張から開放されて、ほっとしたところに風邪を引いてしまった人の姿でした。風邪による体のだるさと、陽気の暖かさによるだるさ、さらには緊張の解けた精神的なだるさも加わって、今日は家でゆっくりと休んでいるしかないのだというところなのでしょうか。それでも、どうしても今日中に連絡しなければならない事柄はあり、手紙を書き始めたのです。文字を書きながらも体はだるく、前へ前へと傾いて行きます。鉛筆の持ち方もいつもよりしっかりと、根元のところを持って、一文字一文字力を込めなければ、きちんとしたことが書けません。「春の風邪」と、「鉛筆を短く持つ」という動作の関係が、無理なく、ほどよい距離で繋がっています。『四季の詞』(1988・角川書店)所載。(松下育男)




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