巨人開幕五連敗、最下位。打線の組み方がおかしいんとちゃいまっか。高橋由一番反対。(哲




2008ソスN4ソスソス3ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 0342008

 ぶらんこを漕ぐまたひとり敵ふやし

                           谷口智行

を踏ん張って空高くぶらんこを漕ぐのは気持ちいい。耳元を切る風の音。切れんばかりに軋む鎖の音と金臭い匂い。いつもは見上げて話している先生や上級生が足下に見えるのに得意の気分を味わった。今ほど遊具がなかった時代なので休み時間ともなるとぶらんこには順番待ちの長い列が出来た。どれだけ遠く飛び降りで着地できるか、泥まみれの靴を飛ばせるか、ずいぶん乱暴な乗り方もしたものだ。誰しもぶらんこに乗って空に漕ぎ出すときは王様になれる。ぶらんこが春の季語になったのは「のどやかでのびやかな春の遊戯として春の題として定めた」(「日本大歳時記」講談社)ところに本意があるようだが、この句ではそのぶらんこをじりじりと順番待ちをしている羨望と嫉妬のまなざしを思う。まわりの目を気にして二、三度漕いで、すぐ列の後ろにつくような柔な性格なら敵を増やしはしない。回りの反発を意に介さずぶらんこを漕ぎ続ける気の強い漕ぎ手は世間に出ても敵を作りやすい性格なのかもしれない。ぶらんこといえば鷹女の「鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし」の激しい句を思うが、こちらも恨みを買いそうな句である。『媚薬』(2007)所収。(三宅やよい)


April 0242008

 なにほどの男かおのれ蜆汁

                           富士眞奈美

も蜆汁も春の季語である。冬の寒蜆も夏の土用蜆もあるわけだけれど、春がもっともおいしいとされる。もちろん、ここでは蜆そのものがどうのこうのというわけではない。こういう句に出会うと、大方の女性は溜飲をさげるのかもしれない。いや、男の私が読んでも決して嫌味のない句であり、きっぱりとした気持ちよささえ感じる。下五の「蜆汁」でしっかり受けとめて、上五・中七がストンとおさまり、作者のやりきれない憤懣にユーモラスな響きさえ生まれている。蜆の黒い一粒一粒の小粒できちんとしたかたち、蜆汁のあのおいしさとさりげない庶民性が、沸騰している感情をけなげに受けとめている。ここは気どったお吸い物などはふさわしくない。「なにほど」ではない蜆汁だから生きてくる。同じ春でも、ここはたとえば「若布汁」では締まらないだろう。それどころか、気持ちはさらにわらわらと千々に乱れてしまうことになるかもしれない。眞奈美は女優だが、五つの句会をこなしているほどのベテランである。掲出句は、ある人に悪く言われたことがあって、そのときはびっくりしたが、バカバカしいと考え直して作った句だという。「胸のつかえがすーっとおりて・・・・立ち直れた」と語っている。さもありなん。こんな場合、散文や詩でグダグダ書くよりは、五七五でスイと詠んでしまったほうがふっきれるだろう。そこに俳句のちからがある。吉行和子との共著『東京俳句散歩』もある。ほかに「宵闇の小伝馬町を透かしみる」「流れ星恋は瞬時の愚なりけり」などがある。いずれもオトナの句。「翡翠」14号(2008)所載。(八木忠栄)


April 0142008

 部屋ごとに時の違へる万愚節

                           金久美智子

愚節(ばんぐせつ)、四月馬鹿、エイプリールフール。といっても、実際に他愛ない嘘をわざわざこの日のために用意している人は、少なくともわたしのまわりにはいない。起源はヨーロッパとも、インドともいわれるが、日本では「嘘」や「馬鹿」など、マイナスイメージの言葉を使っているせいか、いまひとつ浸透していない祭事のひとつだろう。しかし、俳句になるとその文字が持つ捨てがたい俳味が際立つ。身の回りの「愚かであること」はたやすく発見できるものだが、それは排除につながらず、どこか愛おしくなるようなものが多い。掲句は時計が時計の役目を果たしていないという現実である。しかし、そこには時を刻むことが唯一の使命のはずの時計に、それぞれ進み癖やら遅れ癖を持っているという人間臭さを愛おしむ視線がある。さらには「リビングは少し早めに行動したいから5分進めて」「寝室のはぴったり合わせて」という人為的な行為と相まって、ますます時計は時計の本意から外れていく。結局テレビに表示される時計を見るだけのために、テレビを付けたりしているのである。それにしても現代の家電にはあらゆるものに時計が付いている。微妙に狂った時計たちが休むことなくせっせと時を刻んでいるのかと思うと、ちょっと切ない。「続氷室歳時記」(2007・邑書林)所載。(土肥あき子)




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