表紙のデザイン案が出てくると、火のついたように忙しくなる。我慢我慢。(哲




2008ソスN4ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 1142008

 海棠の花くぐりゆく小径あり

                           長谷川櫂

代でも俳句が描く情趣の大方は芭蕉が開発した「わび、さび」の思想を負っている。そこには死生観、無常観が根底にある。そこに自らの俳句観を置く俳人は現世の諸々の様相を俳句で描くべき要件とは考えない。現実の空間や時間を「超えた」ところにひたすら眼を遣ることを自己のテーマたらむとするのである。その考え方の表れとして例えば「神社仏閣」や「花鳥諷詠」が出てくる。どう「超える」かの問題や、現実に関わらない「超え方」があるのかどうかは別にして、そういうふうに願って作られる作品があり、そういう作品に惹かれる読者が多いこともまた事実である。いわゆる文人俳句といわれるものや詩人がみずから作る俳句の多くもまたこの類である。自己表現における「私」と言葉とのぎりぎりの格闘に緊張を強いられてきた人は、俳句に「私」を離れた「諷詠」を求めたいのかもしれない。作者は生粋の「俳人」。世を捨てる「俳」の在り方に「普遍」を重ねてみている。句意は明瞭。『季別季語辞典』(2002)所載。(今井 聖)


April 1042008

 明日出会ふ子らの名前や夕桜

                           中田尚子

週の月曜日あたりに入学式のところが多かったのか、真新しいランドセルを背負った小学生やだぶついた制服を着た中学生と時折すれちがう。入学式には満開の桜が似合いなのに、東京の桜はほとんど散ってしまった。温暖化の影響で年々桜の開花は早まっているらしく、赤茶けた蘂ばかりになってしまった枝が少しうらめしい。我儘な親と躾けられない子供にかき回される教育現場が日々報道されているけれど、初めて出会う子供達の名前を出席簿に確かめる担任教師の期待と不安は昔と変わらないのではないか。明日に入学式を控えて先生も少し緊張している。これから卒業までの年月をともに過ごす子供達である。育てる楽しさがあると同時に巣立つまでの責任は重い。時に感情の対立もあるかもしれないが、そのぶつかり合いから担任とそのクラスの生徒達だけが分かち合える喜びや親しさも生まれてくる。生徒の側からみても最初に受持ってもらった先生は幾つになっても懐かしいものだ。明日胸を高鳴らしてやって来る子供達が入る校舎の窓に、咲きそろう桜が色濃く暮れてゆく。入学式前日の教師のつぶやきがそのまま句になったような優しさが魅力だ。「俳句年鑑」(角川2008年度版)所載。(三宅やよい)


April 0942008

 恋猫のもどりてまろき尾の眠り

                           大崎紀夫

の交尾期は年に四回だと言われる。けれども、春の頃の発情が最も激しい。ゆえに「恋猫」も「仔猫」も春の季語。あの求愛、威嚇、闘争の“雄叫び”はすさまじいものがある。ケダモノの本性があらわになる。だから「おそろしや石垣崩す猫の恋」という子規の凄い句も、あながち大仰な表現とは言いきれない。掲出句は言うまでもなく、恋の闘いのために何日か家をあけていた猫が、何らかの決着がついて久しぶりにわが家へ帰ってきて、何事もなかったかのごとくくつろいでいる。恋の闘いに凱旋して悠々と眠っている、とも解釈できるし、傷つき汚れ、落ちぶれて帰ってきて「やれやれ」と眠っている、とも解釈できるかもしれない。「まろき尾」という、どことなく安穏な様子からして、この場合は前者の解釈のほうがふさわしいと考えられる。いずれにせよ、恋猫の「眠り」を「まろき尾」に集約させたところに、この句・この猫の可愛さを読みとりたい。飼主のホッとした視線もそこに向けられている。猫の尾は猫の気持ちをそのまま表現する。このごろの都会の高層住宅の日常から、猫の恋は遠のいてしまった。彼らはどこで恋のバトルをくりひろげているのだろうか? 紀夫には「恋猫の恋ならずして寝つきたり」という句もあり、この飼主の同情的な視線もおもしろい。今思い出した土肥あき子の句「天高く尻尾従へ猫のゆく」、こちらは、これからおもむろに恋のバトルにおもむく猫の勇姿だと想定すれば、また愉快。『草いきれ』(2004)所収。(八木忠栄)




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