天候不順、気温の乱高下もはげしいですね。風邪にはご用心ください。(哲




2008ソスN4ソスソス14ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 1442008

 囀や島の少年野球団

                           下川冨士子

語は「囀(さえずり)」。繁殖期の鳥の雄の鳴き声を言い、いわゆる地鳴きとは区別して使う。ゴールデン・ウイークのころに、盛んに聞かれる鳴き声だ。そんな囀りのなかで、子供たちが野球の練習に励んでいる。休日のグラウンドだろう。目に染みるような青葉若葉の下で、子供たちの元気な姿もまた眩しく感じられる。ましてや、みんな「島」の子だ。過疎化と少子化が進んできているのに、まだ野球ができるほどの数の子供たちがいることだけでも、作者にとっては喜びなのである。とある日に目撃した、とある平凡な情景。それをそのまま詠んでいるだけだが、作者の弾む心がよく伝わってくる。一読、阿久悠の小説『瀬戸内少年野球団』を思い出したけれど、こちらは戦後間もなくの淡路島が舞台だった。句の作者は熊本県玉名市在住なので、おそらく有明海に浮かぶどこかの島なのだろう。そういうことも考え合わせると、いま目の前でいっしょに野球をやっている子供たちのうち、何人が将来も島に残るのかといった一抹の心配の念が、同時に作者の心の片隅をよぎったかもしれない。『母郷』(2008)所収。(清水哲男)


April 1342008

 月日貝加齢といふ語美しき

                           三嶋隆英

ず、「月日貝」というものがあることに驚きます。むろんものの名ですから、人によってどのようにも名づけられることはあるでしょう。けれど、人の名や、動物の名、植物の名に、月日を持ってくるとは、思いがけないことでした。「月日貝」という名だけで、かなりのイメージを喚起しますから、この語を使って句を詠むことは、つまり季語に負けない句を詠むことは、容易なことではありません。歳時記の解説には次のような説明があります。「イタヤガイ科の二枚貝。(略)左殻は濃赤色、右殻は白色。これをそれぞれ日と月に見立ててこの名がある」。なるほど、視覚的に、色から月と日があてがわれたのでした。しかし、月と日があわさって、つながってしまうと、この語は突然、「時の流れ」を生み出してしまいます。掲句もその「月日」を歳月と解釈し、齢(よわい)を加えるという言い方を美しいと詠んでいます。考え方の流れとしては素直で、このままの心情を読み取ればよいのかと思います。老いることが何かを減じることではなく、加えられることであるという認識は、たしかに美しいものです。なお、歳時記の解説はさらに、次のように続いています。「食用になり、殻は貝細工になる。」そうか、わたしたちは月日を食べ、細工までしていたのです。『角川俳句大歳時記 春』(2006・角川書店) 所載。(松下育男)


April 1242008

 ふらここの影の止つてをりにけり

                           木村享史

らんこ、とは考えてみればまことにそのまんまな名前である。ポルトガル語に由来するなど、その語源は諸説あるようだが、ぶら下がって揺れる様子から名付けられたという気が確かにする。広辞苑で「ふらここ」と引くと、「鞦韆」の文字と共に「ぶらんこ。ぶらここ。しゅうせん。」と出る。他に、半仙戯、ゆさわり、など、さまざまな名前を持つぶらんこが春季である本意は、四月三日の鑑賞文で三宅さんが書かれているように、のどやかでのびやかな遊具としての特性からだろう。春休みの間は一日中揺れていたぶらんこ。新学期が始まった公園では、ぶらんこを勢いよく漕ぐにはまだ幼い子供達とその母親に、ゆっくりした時間が流れている。昼どき、ベンチで昼休みを過ごす人に春の日がうらうらと差す。その日ざしは、葉の出始めた桜の葉陰からこぼれ、ジャングルジムにシーソーに、そしてぶらんこに明るい影を落としている。たくさんの子供達に、時にはおとなに、その名の通り仙人になったような浮遊感を与え続けているぶらんこの、しんとした影。春昼を詠んで巧みである。『夏炉』(2008)所収。(今井肖子)




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