草思社が丸ごと文芸社に買われた。潰れるよりは良かったと言うべきか。(哲




2008ソスN4ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 1942008

 春昼ややがてペン置く音のして

                           武原はん女

句の前に、小さく書かれている前書き。一句をなして作者の手を離れれば、句は読み手が自由に読めばよいのだが、前書きによって、作句の背景や心情がより伝わりやすい、ということはある。この句の場合、前書きなしだとどんな風に受け止められるのだろう。うらうらとした春の昼。しんとした時間が流れている。そこに、ことり、とペンを置く音。下五の連用止めが、この後に続く物語を示唆しているように感じられるのだろうか。ペンを置いたのは、作家大佛次郎。この句の作者、地唄舞の名手であった武原はん(はん女は俳号)の、よき理解者、自称プロデューサーであった。昨年、縁あってはん女の句集をすべて読む機会を得た。句集を年代を追って読んでいくというのは、その人の人生を目の当たりにすることなのだ、とあらためて知ったが、そうして追った俳人はん女の人生は、舞ひとすじに貫かれ、俳句と共にあった。日記のように綴られている句の数々。そんな中、「大佛先生をお偲びして 九句」という前書きがついているうちの最初の一句がこの句である。春昼の明るさが思い出として蘇る時、そこには切なさと共に、今は亡き大切な人への慈しみと感謝の心がしみわたる。〈通夜の座の浮き出て白し庭牡丹〉〈藤散るや人追憶の中にあり〉と読みながら、鼻の奥がつんとし、九句目の〈えごの花散るはすがしき大佛忌〉に、はん女の凛とした生き方をあらためて思った。『はん寿』(1982)所収。(今井肖子)


April 1842008

 銀河系のとある酒場のヒヤシンス

                           橋 間石

のおかげでいろいろ乗り切ってこられたと大酒呑みだった父は酒への感謝をよく口にした。負け戦に駆り出されて爆弾の下を駆けずり回り、戦後は農地改革で家が崩壊し、いくつか職を変え、伴侶である僕の母は長患いで入院を繰り返し、馬鹿息子はいつも逆らって父を悩ました。酒が父のストレスのはけ口だった。俺が飲めなくなったらそんときは終わりだな。その言葉どおり飲めなくなってすぐお別れがきた。今現世の我らが飲んでいるところが銀河系の地球の日本のとある酒場。そういう意味ともうひとつ、夜空を見上げて銀河系の中に彼岸の人たちが集まる酒場を思ってみてもいい。どちらにしてもヒヤシンスなんか置いてあるんだからちょっと粋な酒場だ。僕などいつも飲む酒場はゴキブリや鼠が出る喧騒の安酒場。銀河系というより地獄の一丁目のような趣き。(作者の間石の間の正字は門構えの中に「月」)『季別季語辞典』(2002)所載。(今井 聖)


April 1742008

 つばな野や兎のごとく君待つも

                           鬼頭文子

色の穂がたなびく「つばな野」でうさぎのようにじっとうずくまって、あなたを待っていますよ。と愛しい人に呼びかけている。「君」は短歌でもおもに恋の歌に用いられる人称。「待つも」ととまどいを残した切れが、帰ってくるかどうかわからない人を待つ不安を反映させている。四月末から五月にかけて白い穂をたなびかせるつばな野は春の野に季節はずれの秋が出現したようで、不思議に美しい。遠くから見ると銀色に光る穂綿がうずくまる兔の背のように見えるだろう。膝下ぐらいの高さに群生するこの草が神社でくぐる「茅の輪」になるという。鬼頭文子の夫は絵の勉強のため単身フランスへ渡っていた。愛らしい兔に投影されている女の姿は不満を漏らさず男の帰りをじっと待つ女の愛のかたちでもある。「待つわ」という歌もあったが意地悪な見方をすれば、待っている自分のけなげさに酔っているようにも思える。待つ、待たれる男女の関係は今変化しているのだろうか。「春の風あいつをひらり連れてこい」とは20代の俳人藤田亜未の句集『海鳴り』(2007)の中の恋句。このような句を読むと湿りのない現代的な恋の感覚に思えるが、もう一方で「さくらんぼ会えない時間は片想い」と、呟くところをみると、半世紀を経ても、会えない時の心細さは文子と変わらないのかもしれない。『現代俳句全集』一巻(1958)所載。(三宅やよい)




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