Rvq句

April 2242008

 掃除機は立たせて仕舞ふ鳥雲に

                           杉山久子

集には同じ季語を使った〈あをぞらのどこにもふれず鳥帰る〉という叙情的な魅力ある句もおさめられているが、掲句により惹かれるのは、それぞれの居場所ということについて唐突に考えさせられるところだ。掃除機は毎日使用されるものだが、その収納場所、おそらくそれはどの家庭でも部屋のどこかの片隅にすっきり納められたところで、生活空間が戻ってくる。春のある日、彼方へと飛び立つ鳥たちの姿を思い、鳥もまた雲へと消えたところが、正しい収まりどころであるかのような、漠然としたやりきれないわだかまりが、ほんのちらっと作者の胸をよぎったのだろう。その「ほんのちらっと」思う心が、年代や性別を越えて重なり合うことで、俳句にはさざなみのような共感を生まれる。壮大な自然の営みや、日常の瑣末な空虚感などにまったく触れることなく、しかしそれはいつまでも揺れ残るぶらんこのように、心の中に存在し続ける。「藍生」「いつき組」所属している作者の第二回芝不器男俳句新人賞の副賞として出版された本書は、写真との組み合わせで構成され、美しく楽しく値段も手頃。〈人入れて春の柩となりにけり〉〈白玉にやさしきくぼみあれば喰む〉『春の柩』(2007)所収。(土肥あき子)


February 1722009

 恋猫といふ曲線の自由自在

                           杉山久子

が家の三毛猫は、松の内が明ける頃早々に恋猫となる。近所に野良猫もたくさん住む環境ながら、タイミングがずれているせいか、雄猫がうろつくこともなく、孤独のうちに恋猫期が終わる。そして、二月に入ると近所の猫たちの恋のシーズンが始まるが、この時期にはもう我関せず。ペットだからいいようなものの、女性としてはどうなのよ、と質問したいものである。恋猫の姿というのは、掲句の通り、立っても歩いても寝転んでもどこかしら魅惑の曲線を伴う。とはいえ、猫嫌いの方にとっては、あのくねくねした感じがなによりイヤと言われるのかもしれない。猫好きが多い私の周りで、はっきり猫が嫌いという方の理由を聞くと「抱いたときのあのぐにゃっとした感じ」なんだそうだ。「お菓子が嫌いなのはあの甘いところ」に通じるような、とりつく島のなさに思わず笑ってしまったが、猫が苦手という何人かに聞くと、総じて「分かる分かる」と頷かれる。猫諸君。抱かれるときは少し身を固くしてみてはいかがだろうか。〈雛の間に入りゆく猫の尾のながき〉〈猫の墓猫に乗られてうららけし〉『猫の句も借りたい』(2008)所収。(土肥あき子)


August 3182010

 骨壺をはみだす骨やきりぎりす

                           杉山久子

月始めに亡くなった叔母はユーモアのある女性で、遊びに行くたびに飼っていた文鳥の会話をおもしろおかしく通訳してくれ、幼いわたしは大人になれば難しい漢字が読めるように鳥の言葉がわかるようになるのだと信じていたほどだった。70歳になったばかりだったが、40代からリウマチで苦しんだせいか、火葬された骨は骨壺をじゅうぶんに余らせて収まった。しかし掲句は、はみだすほどであったという。それは、厳粛な場所のなかでどうにも居心地悪く存在し、まさか茶筒を均らすようにトントンとするわけにもいかぬだろうし、一体どうするのだろうという不安を骨壺を囲む全員に与えていたことだろう。俳人としては、死ときりぎりすといえば思わず芭蕉の〈むざんなや冑の下のきりぎりす〉を重ねがちだが、ここは張りつめた緊張のなかで、「りりり」に濁点を打ったようなきりぎりすの鳴き声によって、目の前にある骨と、自身のなかに紡ぐ故人の姿との距離に唐突に気づかされた感覚が生じた。「はみだす」という即物的な言葉で、情念から切り離し、骨を骨としてあっけらかんと見せている。〈かほ洗ふ水の凹凸揚羽くる〉〈一島に星あふれたる踊かな〉『鳥と歩く』(2010)所収。(土肥あき子)


September 1292015

 芋虫に芋の力のみなぎりて

                           杉山久子

虫といえば丸々と太っているのが特徴だ。手元の歳時記を見ても〈芋虫の一夜の育ち恐ろしき〉(高野素十)〈   芋虫の何憚らず太りたる〉(右城暮石)、そしてあげくに〈   命かけて芋虫憎む女かな〉(高浜虚子)。なにもそこまで嫌がらずともと思うが。しかしこの句を読んであらためて、元来「芋虫」はイモの葉を食べて育つ蛾の幼虫のことだったのだと認識した。大切なイモの葉を食い荒らす害虫として見れば太っていることは忌々しいわけだが、ひとつの生き物、それも育ち盛りの子供としてみれば、まさに生きる力がみなぎっているのだ。芋の力、の一語には文字通りの力と、どこか力の抜けた明るいおもしろさがあって数少ないポジティブな芋虫句となっている。「クプラス」(2015年・第2号)所載。(今井肖子)


March 1532016

 網膜に飼ふ鈍色の蝶一頭

                           杉山久子

に焼きつけるとは、見たものを強く記憶にとどめて忘れないようにすることの慣用句だが、実際に日の下でひとつのものをじっと見ると、目を閉じても浮かびあがる。光りの刺激を受けた視覚は、その光りが消えたのちも網膜が持っている残像効果によって視界に残る。掲句が抒情を超えた現実感を伴うのは、誰しもこのような状態を感覚としてよみがえらせることが可能だからだろう。そして、それでもなお詩情を失わないのは、あの軽やかではかない蝶が、大型動物と同じ一頭二頭と数える事実にもある。それによって蝶は突如として巨大で堅牢な存在となり、作者の眼裏にしばらく消えない刻印を残していったのだ。〈ゆふぐれはやし土筆ほきほき折り溜めて〉〈ぶらんこの立ち漕ぎ明日の見ゆるまで〉『泉』(2015)所収。(土肥あき子)




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