昨夜、少々飲み過ぎたのたかも。久しぶりの宿酔の朝になりそうです。(哲




2008ソスN4ソスソス23ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 2342008

 鶯もこちらへござれお茶ひとつ

                           村上元三

は「春告草」、鰊(にしん)は「春告魚」と呼ばれ、鶯は「春告鳥」と呼ばれる。鶯には特に「歌よみ鳥」「経よみ鳥」という呼び方もある。その姿かたちよりも啼き声のほうが古くから珍重され、親しまれてきた。啼くのはオスのほうである。鶯の啼く声を聞くチャンスは、そう滅多にないけれども、聞いたときの驚きと喜びは何とも言い尽くせないものがある。誰しもトクをした気分になるだろう。しかし、春を告げようとして、そんなにせわしく啼いてばかりいないで、こちらへきて一緒にゆっくりお茶でもいかが?といった句意には、思わずニンマリとせざるを得ない。時代小説家として売れっ子だった元三が、ふと仕事の合間に暖かくなってきた縁側へでも出てきて、鶯の声にしばし聞き惚れているのだろうか。微笑ましい早春のひとときである。「こちらへござれ」とはいい言葉だ。のどかでうれしい響きを残してくれる。妙な気取りのない率直な俳句である。何年前だったかの夏、余白句会の面々で宇治の多田道太郎邸にあそんだ折、邸の庭でしきりに鶯が啼いていたっけ。あれは夏のことだから老鶯だった。歓迎のつもりだったのか、美しい声でしきりに啼いてくれた。春浅い時季の鶯の声はまだ寝ぼけているようで、たどたどしいところがむしろ微笑ましい。元三には「重箱の隅ほじくつて日永かな」「弁慶の祈りの声す冬の海」などの句もあり、どこかしらユーモラスな味わいがあるのが、意外に感じられる。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


April 2242008

 掃除機は立たせて仕舞ふ鳥雲に

                           杉山久子

集には同じ季語を使った〈あをぞらのどこにもふれず鳥帰る〉という叙情的な魅力ある句もおさめられているが、掲句により惹かれるのは、それぞれの居場所ということについて唐突に考えさせられるところだ。掃除機は毎日使用されるものだが、その収納場所、おそらくそれはどの家庭でも部屋のどこかの片隅にすっきり納められたところで、生活空間が戻ってくる。春のある日、彼方へと飛び立つ鳥たちの姿を思い、鳥もまた雲へと消えたところが、正しい収まりどころであるかのような、漠然としたやりきれないわだかまりが、ほんのちらっと作者の胸をよぎったのだろう。その「ほんのちらっと」思う心が、年代や性別を越えて重なり合うことで、俳句にはさざなみのような共感を生まれる。壮大な自然の営みや、日常の瑣末な空虚感などにまったく触れることなく、しかしそれはいつまでも揺れ残るぶらんこのように、心の中に存在し続ける。「藍生」「いつき組」所属している作者の第二回芝不器男俳句新人賞の副賞として出版された本書は、写真との組み合わせで構成され、美しく楽しく値段も手頃。〈人入れて春の柩となりにけり〉〈白玉にやさしきくぼみあれば喰む〉『春の柩』(2007)所収。(土肥あき子)


April 2142008

 おおかたを削り取られて山笑う

                           ながいこうえん

の句を読んで、思い出した話がある。ある営業マンが取引先の社長と舟釣りに出かけた。日ごろから、おそろしくおべんちゃらの巧い男として知られていた。ところが、あいにくと舟には弱い。たちまち船酔いしてしまい、辛抱たまらずに嘔吐をはじめてしまった。しかし、彼はがんばった。「げほげほっ」とやったかと思うとすぐに立ち直り「さすがは社長、すごい腕前ですねえ」と言ったかと思うと、またもや「げほげほっ」。ついには顔面蒼白になりながらも、「げほげほっ、……さすが……シャチョーッ、うまいもんだ、……げほっ、シャチョー、オミゴト、げほっ……、ニッポンイチーッ、……げほげほっ」。実話である。「おおかた(大部分)」の精気を奪われても、なお必死におのれの本分を貫き通す根性は、掲句の山も同じことだろう。この山は、絶対に泣き笑いしているのだ。健気と言うのか、愚直と言うのか、読者はただ「ははは」と笑うだけではすませられない「笑い」が、ここにある。『現代俳句歳時記・春』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)




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