五月五日五時の句、投句締め切り時間は本日夜の11時です。どうかよろしく。(哲




2008ソスN5ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 0652008

 肉の傷肌に消えゆくねむの花

                           鳥居真里子

が自然に治癒していく様子、といってしまえばそれまでのことが、作者の手に触れると途端に謎めく。血の流れていた傷口がふさがり、乾き、徐々に姿を変え、傷痕さえ残さず元の肌に戻ることを掲句は早送りで想像させ、それはわずかにSF的な映像でもある。外側から消えてしまった傷は一体どこへいくのだろう。身体の奥のどこかに傷の蔵のような場所があって、生まれてから今までの傷が大事にしまい込まれているのかもしれない。一番下にしまわれている最初の傷は何だったのだろう。眠りに落ちるわずかの間に、傷の行方を考える。夜になると眠るように葉が閉じる合歓の木は、その名の通り眠りをいざなう薬にもなるという。習性と効用の不思議な一致。同じ句集にある〈陽炎や母といふ字に水平線〉も、今までごく当然と思っていたものごとが、実は作者の作品のために用意された仕掛けでもあるかのようなかたちになる。これから母の字の最後の一画を引く都度、丁寧に水平線を引く気持ちになることだろう。明日は母の誕生日だ。〈幽霊図巻けば棒なり秋の昼〉〈鶴眠るころか蝋燭より泪〉『月の茗荷』(2008)所収。(土肥あき子)


May 0552008

 火のようにさみしい夏がやってくる

                           近三津子

は来ぬ。実感的にはまだかな。それはともかくとして、まだ猛暑に至らないいまどきに「夏」と聞くと、気分が良くなる。少なくとも、私の場合は、だ。一般的に言っても、おそらくそうではないかと思うのだが、揚句の作者はそのようには思わないと言うのである。逆である。しかし、句にその根拠は示されていない。だからして独善的で一方的な物言いかと言うと、あまりそうは感じられないところが、俳句ないしは詩歌の妙と言うべきか。そう言われてみれば、何かわかるような気もしてくるのである。この句の生命線は、もとより「火のようにさみしい」という比喩にある。さみしさも高じると、火のようにめらめらと燃え上がり、手がつけられなくなるほどに圧倒されてしまう。その手のつけられなさが「夏」という言葉と実際とににかかるとき、そこには常識から言えば一種パラドックスめいた納得の時空間が成立するのだ。「夏」と「火」とは合う。でも「火」と「さみしさ」とは、なかなかに合い難い。作者はそこを強引に「私には合う」と言ってのけていて、それをポエムとして仕立て上げているわけだ。自由詩の世界ではままあることだけれど、俳句ではあまり見かけない表現法である。したがって揚句は、読者の感受性を調べるリトマス試験紙のようなものかもしれないと思った。この断言肯定命題にうなずくのか、それとも断固忌避するのか。そのことは、読者のいわば持って生まれた気質にかかわってくると思われるからである。もちろん、どちらでも良いのである。ともかく、また今年もやがて「火の」夏がやってくる。愉しくあって欲しい。『現代俳句歳時記・夏』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


May 0452008

 ことごとく箱空にして春惜しむ

                           川村智香子

日は立夏、もう夏です。ということで本日は、春を惜しむ句です。季語「春惜しむ」は過ぎゆく春を惜しむこと、と歳時記にその意味が説明されています。さらに「惜しむ」とは、「あるよきものが今に失われてしまうことを知りながらいとおしむこと」とあります。なかなかきれいな説明です。下手な詩よりも、物事の緻密な説明文のほうが、よほど心に入ってきます。掲句を読んでまず思ったのは、「この箱は、なんの箱だろう」という疑問でした。季節の変わり目でもあり、服を入れるための箱の中身を入れ替えてでもいるのかと思いました。あるいはこの箱は、人の中にしまわれた、さまざまな感情の小箱かとも思われます。でも、そんなことを詮索してゆくよりも、与えられた語を、そのままに受けとる方がよいのかなと思います。「箱を空にする」という行為の中で、空(から)は空(そら)を連想させ、心の空(うつ)ろさをも思いおこさせてくれます。その空ろさが、行くものを惜しむ心持につながってゆきます。また、「ことごとく」の一語が、数多くのものに対面している気持ちのあせりや激しさを感じさせ、行くものを見送る悲しみにもつながっているようです。句全体が、春を失って、空っぽになった人の姿を、美しく思い浮かべさせてくれます。『角川俳句大歳時記』(2006・角川書店)所載。(松下育男)




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