このところ、あちこちで震度4程度の地震が起きている。なんか不気味だ。(哲




2008ソスN5ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 1252008

 二の腕を百合が汚してゆきにけり

                           河野けい子

合の花は好ましいが、ただ花粉の量が多くて厄介だ。部屋に飾っておくと、いつの間にやら花粉が飛散して、そこらじゅうを汚してしまう。服やテーブル・クロスなどに付着すると、なかなか取れなくて往生する。だから花屋によっては、最初からオシベを取ってしまって売っていたりする。句は、ノースリーブの作者が街中で百合の束を持った人とすれ違った直後の情景だろう。二の腕が花に触れたか触れないかくらいのことだったろうが、気になってぱっと見てみたら、やはり汚れていた。とっさに花粉を払いのけながら、しかし作者は汚れを不快に思っているわけではない。むしろ、思いがけずも自然と腕とがジカに触れ合ったことを、微笑しつつ受け入れている。男の私から言えば、瑞々しく健康的なエロティシズムすら感じられる情景だ。余談になるが、マリアの受胎告知の絵に添えられる百合には、オシベが描かれていないのだそうである。むろん花粉を心配して描かなかったのではなく、マリアの処女性に配慮してのことだろう。「俳句界」(2008年5月号)所載。(清水哲男)


May 1152008

 薄紙にひかりをもらす牡丹かな

                           急 候

田宵曲は『古句を観る』の中で、この句について次のように解説しています。「牡丹に「ひかり」という強い形容詞を用いたのは、この時代の句として注目に値するけれども、薄紙を隔てて「ひかりをもらす」などは頗る弱い言葉で、華麗なる牡丹の姿に適せぬ憾(うらみ)がないでもない。」なるほど、これだけ自信たっぷりに解説されると、そのようなものかといったんは納得させられます。ただ、軟弱な感性を持ったわたしなどには、むしろ「ひかりをもらす」と、わざわざひらがなで書かれたこのやわらかな動きに、ぐっときてしまうのです。薄紙を通した光を描くとは、江戸期の叙情もすでに、微細な感性に充分触れていたようです。華麗さで「花の王」とまで言われている牡丹であるからこそ、その隣に「薄さ」「弱さ」を置けば、いっそうその気品が際立つというものです。いえ、内に弱さを秘めていない華麗さなど、ありえないのではないかとも思えるのです。句中の「ひかり」が、句を読むものの顔を、うすく照らすようです。『古句を観る』(1984・岩波書店)所載。(松下育男)


May 1052008

 ぼたん切て気のおとろひしゆふべ哉

                           与謝蕪村

村には牡丹の佳句が少なからずある。〈牡丹散て打重りぬ二三片〉をはじめとして〈金屏のかくやくとして牡丹かな〉〈閻王の口や牡丹を吐んとす〉など。幻想的な句も多い蕪村だが、牡丹の句の中でも、閻王の句などはまさにその部類だろう。桜の薄紅から新緑のまぶしさへ、淡色から原色へ移ってゆくこの季節、牡丹は初夏を鮮やかに彩る花である。それゆえ牡丹を詠んだ句は数限りなく存在し、また増え続けており、詠むのは容易ではないと思いながら詠む。先日今が見頃という近所の牡丹寺に行った。小さいながら手入れが行き届き、正門から二十メートルほどの石畳の両脇にびっしり、とりどりの牡丹が満開である。そして、朝露に濡れた大輪の牡丹と対峙するうちに、牡丹の放つ魔力のようなものに気圧され始めた。それは美しさを愛でるというのを通りこし、私が悪うございましたといった心持ちで、半ば逃れるように牡丹寺を後にしたのだった。掲出句、丹精こめた牡丹が咲き、その牡丹に、牡丹の放つ妖気に気持ちがとらわれ続けている。そんな一日を過ごして、思い切ってその牡丹を切る。そのとたんに、はりつめていた作者自身の気もゆるんでしまった、というのだろう。牡丹にはそんな力が確かにある。おとろひし、は、蕪村の造語ではないか(正しくは、おとろへし)と言われている。『與謝蕪村句集 全』(1991・永田書房)所載。(今井肖子)




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