17日午後2時からのイベントに出席し18日の新幹線で帰京予定。ふうっ。(哲




2008ソスN5ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 1752008

 器ごと光つてをりぬさくらんぼ

                           小川みゆき

桜の間に、小さい桜の実がついている。熟すと赤紫になり舗道を染めたりするが、桜桃(おうとう)、いわゆるさくらんぼは、桜の実とは異なり、西洋実桜の実。昔は、桜の木にさくらんぼがならないのはなぜ?と思っていたが。その名の由来は、桜ん坊から来たとか、さくらももの転訛など諸説ある。桜桃は、ゆすらうめとも読むが、ゆすらうめというと子供の頃摘んでは食べた、赤褐色の小さな粒と甘酸っぱくて心持ちえぐい味がよみがえる。さくらんぼを摘んで食べる、という経験はなかったのだが、昨年、初めてさくらんぼ狩りというのを体験した。かなりの高木に、真っ赤な実が驚くほどたわわに実っているのを、次々とって食べる。天辺の方の、お日さまに近いところになっている実の方が甘いので、脚立で木に登る。この木の方が甘い、こっちの方が大粒、などと大のおとな達が夢中になった。そんなさくらんぼだが、かわいらしい名前と色や形に反して、果物としては高価である。きれいに洗って、ガラスの器に盛られたさくらんぼ。食べるのがもったいないような気分になってしばし眺めている。つやつやとした赤い実一つ一つについた水滴と器に初夏の日ざしが反射して、こんもりと丸い光のオブジェのようである。先だって、さくらんぼカレーというのが思いのほか美味、と聞いた。それこそもったいないような食べてみたいような。同人誌「YUKI」(2008・夏号)所載。(今井肖子)


May 1652008

 玻璃くだる雨露病児へ蝌蚪型に

                           香西照雄

世辞にも形の良い句とは言えない。雨露で切れる。破調だがリズムはある。それにしても言葉がぎくしゃくと硬い。流麗な言葉の自律的な結びつきを嫌って、凝視への執着をそのまま丁寧に述べた感じだ。雨露が蝌蚪のかたちに見えるという比喩が中心。玻璃の内側に病気の子どもを閉じ込めて、外側を無数の雨滴が降りてくる。蝌蚪型は比喩だから季語ではないという見方もあろうが、蝌蚪の季節だからこその比喩だという見方もできよう。そう思えば季感はある。蝌蚪型という素朴で大胆な把握はまさに草田男譲り。口あたりの良い流麗な句にない魅力がある。形式のリズムのよろしさが内容より出しゃばると、一句は軽く俗な趣になる。その軽さを「俳諧」と見誤ってはいけない。定型もリズムも季語も「写生」という方法もみんな一から見直すように仕掛けられたこの句のような立ち姿にこそ「文学」が存するのではないか。「俳句とエッセイ」(1987年10月号)所載。(今井 聖)


May 1552008

 孔雀来て羽をひろげる緑雨かな

                           須田保子

者の目の前にやってきた孔雀がそれまで閉じていた羽を大きく広げる。豪華なその羽を背景として今まで気づかなかった細かい雨が作者の目にはっきりと見えたのだろうか。茂り始めた緑を滴らすような「緑雨」と孔雀との取り合わせがエキゾチックな雰囲気を醸ししている。広辞苑によるとインド孔雀は藍色、マクジャクは緑がかった羽を持っているらしいが、掲句の孔雀はどちらだろう。小さい頃家の近くにあった動物園にも孔雀がいて3時きっかりに羽を広げるという噂を友達から聞いたことがある。何回か動物園に通い、夕暮れまで檻の前でじっと待ってみたが、全て空振りに終わった。それ以来目の前で孔雀が羽をひろげる幸運にめぐりあったことはあまりない。最初から羽を広げている孔雀ではなく、長い尾羽を引きずりながら悠然と歩み寄ってきて、「はいっ」とばかりに気合を入れて羽を広げてくれるのがいいのだ。作者の眼前にやって来てするすると羽を開いた孔雀は金のまじった豪華な羽を夢のように揺らしているのだろう。うらやましい。『方寸』(2004)所収。(三宅やよい)




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