浜田知章さん逝去。若き日に、大阪の現代詩研究会で噛みついた思い出。(哲




2008ソスN5ソスソス24ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2452008

 径白く白夜の森に我をさそふ

                           成瀬正俊

本では体験できないが、白夜は夏季。白夜(はくや)とルビがあり、調べると、びゃくや、が耳慣れていたが、本来は、はくや。「南極や北極に近い地方で、それぞれの夏に真夜中でも薄明か、または日が沈まない現象」(大辞林・第二版)とある。地軸が公転面に対して、23.4度傾いていることから、緯度が66.6度近辺より高い地域で起こる現象だが、理論はさておき、どことなく幻想的である。東山魁夷の「白夜光」は、彼方の大河をほの白く照らす薄明と、手前に広がる河岸の森の深緑が、見たことのない白夜のしんとした広がりを目の当たりにさせる。掲出句を含め四句白夜の句があり、作者も北欧へ旅したのだろう。北緯60度位だと、北から上った太陽は、空を一周して北に沈むという。そして地平線のすぐ下にある太陽は、大地に漆黒の闇をもたらすことはない。それでもどこか暗さを秘めている森に続く道、まるで深海にいるかのような浮遊感にとらわれるという白夜の森へ、作者は迷い込んで行ったのだろうか。ノルウェーのオスロ(北緯60度)の、5月24日の日の入りは午後8時20分、5月25日の日の出は午前2時14分で、夏至をほぼ一ヶ月後に控え、そろそろ白夜の季節を迎える。『正俊五百句』(1999)所収。(今井肖子)


May 2352008

 のみとりこ存在論を枕頭に

                           有馬朗人

取粉の記憶はかすかにある。丸い太鼓型の缶の真中をパフパフと指でへこませて粉を出す。蚤はそこら中にいた。犬からも猫からもぴょんぴょん跳ねるところがよく見えた。犬を洗うときは尻尾から洗っていってはいけない。水を逃れて頭の方に移動した蚤が最後は耳の中に入り込み犬は狂い死ぬ。かならず頭から洗うんだぞ。そうすれば蚤は尻尾からぴょんぴょんと逃げていくと父は言った。父は獣医だったので、この恐ろしい話を僕は信じ、洗う順序を取り違えないよう緊張して実行したが、ほんとうだったのだろうか。蚤取粉を傍らに「存在」について書を読み考えている。蚤というおぞましくも微小なる「存在」と存在論の、アイロニカルだがむしろ俗なオチのつくつながりよりも、アカデミズムの中に没頭している人間が蚤と格闘しているという生活の中の場面が面白い。西田幾多郎も湯川秀樹も蚤取粉を枕頭に置いてたんだろうな、きっと。『花神コレクション・有馬朗人』(2002)所収。(今井 聖)


May 2252008

 魚屋に脚立などあり夕薄暑

                           小倉喜郎

や汗ばむ日中の暑さも遠のき、涼しさが予感できる初夏の夕暮れは気持ちがいい時間帯だ。一日の仕事を終え、伸びやかな気分で商店街をぶらぶら歩く作者の目にぬっと置かれた脚立が飛び込んでくる。その違和感が作者の足を止めさせる。と、同時に読者も立ち止まる。「どうして魚屋に脚立があるのだろう。」ただ、はっとさせるだけでは謎解きが終ったあと俳句の味が失せてしまうが、置かれている脚立にさして深い意味はないだろう。それでいてやけに気になるところがこの句の魅力だろう。その魅力を説明するのは難しいが、脚立から魚屋の様子を思い浮かべてみると、水でさっぱりと洗い流されたタイル張りの床や濡れた盤台が現れてくる。そこに立ち働いていたおじさんが消えて脚立が店番をしているようにも思えておかしい。ある一点にピントを絞った写真が前後の時間やまわりの光景を想像させるのと同様の働きをこの脚立が持っているのだろう。「アロハシャツ着てテレビ捨てにゆく」「自販機の運ばれている桐の花」などあくまでドライに物を描いているようで、「え、なぜ」という問いが読み手の想像力をかきたててくれる楽しさを持っている。『急がねば』(2004)所収。(三宅やよい)




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