やっと交流戦の初戦が取れたタイガース。今日勝てば上昇気流に乗れるぞ(哲




2008ソスN5ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2652008

 中肉にして中背の暑さかな

                           加藤静夫

の句、どことなくおかしい。「おかしい」と言うのは、変であり滑稽でもあるという意味だ。すらりと読み下ろせば、この「中肉にして中背の」形容は「暑さ」に掛かることになる。つまり、暑さを擬人化していると読める。しかしいくら擬人化しているとはいえ、中肉中背の暑さとは不可解だ。どんな暑さなのか。強いて言えば季節に頃合いの暑さと受け取れなくもないけれど、その暑さの程度はわかったようでわからない。でも読者は馬鹿じゃないから、ここで瞬時に読みの方角を転換して、中肉中背とはすなわち作者のことであり、その作者が感じている暑さのことだと頭を切り替える。が、そう読んでしまうと、さあっとシラける。せいぜいが肥満体にして長身の人の暑がっている姿などを想像し、それに比べれば楽そうだなどと思うだけで、句全体はさして面白くなくなるからだ。そこでまた馬鹿じゃない読者は最初の読みに戻り、いや待てよとばかりに次の読みに行き、そうこうしているうちに、この読み方の揺れ自体に句のねらいがありそうだと気付き、気付いたときには作者の術中にはまってしまっているのである。つまり前者と後者の読みが揺れながら重なったり離れたりすることで、この句はようやく精彩を発揮するというわけだ。そこらへんに、変であり滑稽であると感じさせる仕掛けの秘密があると読んだ。『中肉中背』(2008)所収。(清水哲男)


May 2552008

 朝顔やすこしの間にて美しき

                           椎本才麿

顔は秋の季語ですが、気分的には夏に咲く花という感じがします。思えばこの花はいつも、生活にごく近いところで咲いていました。子供の頃は、ほとんどの家がそうであったように、我が家もとても質素な生活をしていました。それでも小さな家と、小さな庭を持ち、庭には毎年夏になると、朝顔の蔓(つる)が背を伸ばしていたのでした。子供の目にも、朝に咲いている花は、その日一日の始まりのしるしのような気がしたものです。考えてみれば、「朝」という、できたての時の一部を名前にあてがわれているなんて、なんと贅沢なことかと思います。この句では、「朝」と、「すこしの間(ま)」が、時の流れの中できれいにつながっています。「朝顔の花一時(ひととき)」と、物事の衰えやすいことのたとえにも使われているように、句の発想自体はめずらしいものではありません。それでもこの句がすぐれていると感じるのは、「すこしの間」というものの言い方の素直さのためです。たしかに、少しの間だから儚(はかな)いのだし、儚さにはたいてい美しさが、伴うのです。『俳句の世界』(1995・講談社)所載。(松下育男)


May 2452008

 径白く白夜の森に我をさそふ

                           成瀬正俊

本では体験できないが、白夜は夏季。白夜(はくや)とルビがあり、調べると、びゃくや、が耳慣れていたが、本来は、はくや。「南極や北極に近い地方で、それぞれの夏に真夜中でも薄明か、または日が沈まない現象」(大辞林・第二版)とある。地軸が公転面に対して、23.4度傾いていることから、緯度が66.6度近辺より高い地域で起こる現象だが、理論はさておき、どことなく幻想的である。東山魁夷の「白夜光」は、彼方の大河をほの白く照らす薄明と、手前に広がる河岸の森の深緑が、見たことのない白夜のしんとした広がりを目の当たりにさせる。掲出句を含め四句白夜の句があり、作者も北欧へ旅したのだろう。北緯60度位だと、北から上った太陽は、空を一周して北に沈むという。そして地平線のすぐ下にある太陽は、大地に漆黒の闇をもたらすことはない。それでもどこか暗さを秘めている森に続く道、まるで深海にいるかのような浮遊感にとらわれるという白夜の森へ、作者は迷い込んで行ったのだろうか。ノルウェーのオスロ(北緯60度)の、5月24日の日の入りは午後8時20分、5月25日の日の出は午前2時14分で、夏至をほぼ一ヶ月後に控え、そろそろ白夜の季節を迎える。『正俊五百句』(1999)所収。(今井肖子)




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